マイカホールディングスは、企業の進化と発展をサポートすることを役割として、これまで特定企業との活動にフォーカスしてきました。その意味では、政官民の内、民との仕事に注力してきました。また、他の企業からの依頼で様々な書簡を寄稿することも行ってきましたが、その中で、きっかけが政であろうと官であろうと民であろうと、日本も世界も、早く大幅に進化しないとならない危機的状況を迎えていると強く感じるようになりました。
その危機感に押されて、この度「星火燎原」というコラムを立ち上げることにしました。星火燎原は中国の書経からの引用で、「星星の火、以って原を燎くべし」という言葉が語源となっています。「ほんの小さい花火でも、いずれ荒野を焼き尽くすことができる」という意味で毛沢東が1930年に林彪に送った手紙の中で、「小さな革命運動が、やがては支配階層を覆す」という意味を込めて引用された言葉だと言われています。
本コラムは、日本や日本企業が優れた世界を作るためのリーダーシップを取ることの一助となることを企図して作成されていきます。弊社ができることは極めて小さいことではありますが、それが星火燎原に至る小さなきっかけになればと言うのが弊社のプロ達の願いです。
一方、ここに順次掲載される所感をお読みいただく前にご理解いただきたい点がありますので、少しご説明させていただきます。
「星火燎原」のコラムは可能な限り読者がお読みいただきやすい、ワンメッセージの雑感を主にしたいと考えていますが、中には長い所感や、他の企業に寄稿したもの、以前に執筆したものが入ることがあります。
英語の表現で、「Glass is half full」と言う格言があります。つまり半分ワインが入ったワイングラスを見た時に、「半分しかない」と見るか「半分もある」と見るかによって世界は違って見えるということで、暗に悲観的にものを見ることでは良い結果は生まれないということを言っています。
日本も世界も今本当に大きな危機に直面していることは事実ですし、その危機感を世界の人々が本当にもっているのかを疑問に感じる今日この頃ですが、その残っている良さをどう生かして進化するというポジティブ発想で「星火燎原」を編集していきたいと考えています。
左上の星火燎原の書は、私共が懇意にさせていただいている書家の紫舟さんにお願いして書いていただいたものです。紫舟さんが日本を代表する素晴らしい書家でおられることは言うまでもありませんが、ご自身がアーティストとして現在力を入れておられるテーマが「日本の美や素晴らしさを世界中の方々に理解して頂く」ということであることも、私共の考え方と重なるところがありましたので、お願いしました。
日本と日本人のポテンシャルはまだフル活用されていない
インターフェイスの重要性、日本人の働き方を見直す必要性
官の役割として、環境や技術の変化に応じた規制緩和や改革を
資金活用のベースとしての”産業の理論”・”金融の理論”経営・ハイブリッド
脳梗塞からの学び いかなる時でも重要な判断を他人に任せてはならない
IRの本質、そして公務員の仕事の本質を改めて考える
国の課題への対応がキャッチアップでなく挑戦
グローバルサウスの台頭に、日本が関与すべき理由と果たすべき役割
グローバル市場で競争力をもつためにも、日本のグローバル企業のあるべき姿とは
少子高齢化を、高齢化・少子化・人材育成の視点に分けて考えると見えてくるもの
社会の前提が大きく変わる中で、新しい現実に基づいた資本主義とは
急速に進むDXにおけるマネジメントの役割とは
日本の主たる労働人口であるホワイトカラーの機能低迷に、どう対応すべきか
日本が再び世界をリードするために日本人に求められる行動とは
前回講演の補足
日本の現状と未来への洞察
進化する仕事に付加価値を創出し続け、自らも進化し評価される正の循環の必要性
対処療法的なリスキリングより、若い頃から自己責任でストレッチする教育を
参謀はトップや他人をコントロールして結果を出すプロ
自分のアナログな力を磨き続けるために必要な要素
誰しもが明確に自身のPrincipleを持つことの重要性
日本はいつからか追いかけることに慣れてしまって、真の挑戦を忘れていないか
自己責任で自ら考え、創意工夫して結果を出すのがプロフェッショナル
日本の復活のために変わらねばならないこと
ここ半世紀の間に、日本は“Japan as number one”の国から、先進国で最悪の“否定主義者(negativist)の国”になってしまいました。この兆候は日本や日本人の多くの部分で顕在化していますが、この重大問題への強い問題意識は政官財、国民のいずれからもまだ見られません。私個人としては、日本がこの50年間で特に国民が“negativist”に変化してしまったことが、今日の日本の低迷の最大の元凶で、そういう国、国民を「問題点を解決し進化することに向けて考え行動する」という“positivist集団”に変えることができれば、日本が再び世界をリードする可能性があると感じています。
Negativistとは
l 斜に構えた否定的な視点で見聞きして、ポジティブな要素には目が霞む
l 人や企業、政治、物事、話等のあら捜しをして問題点を発見し、それを材料に批判したり、誹謗したりする。(所謂悪い意味での評論家や、誤った正義感を持つ)
l 問題点の指摘はするが、その解決策を考えたり、解決に向けて行動しない。
l 自分が持っているものを正しくポジティブに評価せず、人がやっていることをうらやむ
l 自信がない分攻撃的になる
これ等のnegativist病は、日本中に蔓延しています。これをご理解いただくために、違った分野でのnegativist集団の例をお話しします。例えば、人の話を聞くと直ぐに問題点や駄目な理由を見つけ、発言の時はそこを批判することが多くの人の典型的な反応です。日本中でみられる学校や組織の中でのいじめは、最たるものです。そしてそのいじめの蔓延を加速しているのは、最近は少し改善して来ていますが、テレビのバラエティ番組です。出演者に苦痛を与えたり、恥をかかせそれを楽しむ場面が多く、子供たちに人の苦しみを楽しみ、いじめを正当化することを助長しています。マスコミでも、テレビでも問題点の指摘や批判は出ますが、ではどうするかと言う議論は殆ど見られません。むしろ、いじめとバラエティー番組の因果関係を否定する説もあるそうです。また、最近の若者の情報源が、テレビからSNSに移行しているというので、ネガティブインパクトはそれほどないと言う考えもあるかもしれませんが、個人的にはここ半世紀近くのマスコミはかなりnegativistであり、むしろnegativistを助長してきた印象は否めない気がしています。
政治でも、与野党の議論の大半は、野党による与党のあら捜しと批判の時間が大半で、それに対する与党も、逃げとかわし、negativist共通の言い訳の時間が与党の時間の大半で、どちらからも解決のための提案は出てきません。国会の時間の大半は、日本と言う国を“大きく進化させる”ことには全く無関係で、些末な問題のあら捜しの議論や戦術的駆け引きが大半です。これは与野党ともに典型的なnegativistの兆候です。マスコミも長々とこれを報道していますが、本質的な問題指摘や、解決案の提案を行っていません。特に最近のマスコミは政官財と同調した内容がほとんどで、独自の視点や切り口による本質的課題の指摘や提言が見られず、negativistの集団と化しています。
官、つまり行政の方はどうかと言えば、ここ半世紀の間に、政が官をコントロールするという力の逆転が起こったこともあり、negativistの政治家の影響と、その結果としての官による既得権と守りと保守化の指向がますます強くなるという、negativist化が顕著です。それは官や立法府がかなり昔に作った膨大な規制や法律の変化が極めて遅く、進化していないことを見ても分かります。かなり多くの歴史がある規制は、民を守り不正を防ぐための規制でしたが、50年以上の時間の経過とその間の技術、競合、企業力、リスク、保護すべき要素等が大幅に変化していますが、それに対する規制の大幅変更はほとんど見られません。
例えば、様々な建築についての規制の内、今でも有効なものはあります。例えば建蔽率や高さ制限、日照権等の規制は理解できますが、今の技術や他の制約がある中で、厳しい容積率規制や、地下利用、ロフト等についての厳しい規制がある意味はほとんどありません。この議論をしますと、negativistの官の側からは、変更や弊害の否定意見が出てくると思いますが、今の技術、品質、近隣へのネガティブが無いことを考え、特に都市圏の地価の高騰を考えますと、これ等の撤廃や大幅緩和は大胆に見直される時期が来ています。官や立法府による無意味な規制の大幅変更の例は枚挙にいとまがありませんが、直近の日本経済の進化と成長で最も大きく官が貢献できるのは規制の大胆かつ迅速な見直しだと思います。
一方立法府や官の必要な規制や指導、厳しい法的コントロールが後手に回っている事象もかなりあります。例えばSNSを通じた個人への誹謗中傷が、いじめや不登校、自殺等の問題を引き起こしたり、そういう行為の規制が、「言論の自由」と言う大義名分で過保護になって放置されているのも、まさにnegativistの現象です。憲法が制定された終戦直後の情報技術やコミュニケーションの状況と、個人の発言がSNSやインターネットと言う波及効果が大きいチャネルが情報流通の主流となった現在は状況が全く違います。今は一個人の意見や発言は、ネットやSNSによってマスコミ以上のスピードで拡散し、他を傷つける凶器となります。そういう現代において、憲法の「言論の自由」を放置しておくことは、今後の技術の発展を犯罪や攻撃の温床としてしまうリスクがあります。いじめの問題にしても、ドメスティックバイオレンス、様々な詐欺の問題も、今日の状況は、一世紀前の憲法や法律が定められた状況とは根本的に違います。
教育問題もしかりです。公的にはそう発表されていませんが、バブル期とほぼ同時に始まったゆとりの教育から続く半世紀程の教育の誤りが今でも続いており、その対応が検討されていません。同質化した金太郎あめのような生徒の育成を基本とした教育も、色々なニーズの変化の話はでていますが、そういう金太郎あめの教育で育てられてきた教員が大半であり、行政による大幅な軌道修正が行われないという状況もあり、その実態は余り大きく変わっていません。今の“学校側”の定義による潜在落ちこぼれ児童は、おそらく40%近くいると想定されますが、その中で本当の意味で何らかの問題でそうなった子供はごく少数で、今の学校や教育のガイドラインである、個性や自分に合ったやり方で学ぶことを否定して、型にはまることができる子どもをノーマル、そうでない子供をアブノーマルと認識する教育制度そのものの欠陥です。そういう制度の欠陥によって増産された潜在落ちこぼれ児童への対応は、2020年の教育改革で多少の手が打たれたように聞いていますが、現時点での多くの学校の状況を見ると、欧米に比して大幅に遅れてきた、学校や教員自身の理解や言動が変わり、その結果これまでの教育の在り方の不備で大幅に増加した、現在の学校に適応できにくい児童への対応が大幅に変わったとは言えないのではないでしょうか?。そういう中で金太郎あめの型にはまらない“普通でない”子供が、この誤った教育制度で引き続き量産されているのが現状ではないでしょうか?一方、いじめや人を不当に攻撃すること、社会で蔓延している詐欺等についての、正しく、現代に合った形での倫理教育も行われていません。過度な自己利益の追求等への指導や、現代にマッチした正誤の判断、社会貢献やそれによってもたらされる喜び、等を学ぶ教育や体験も希薄です。いじめを隠し、落ちこぼれを増産しても見て見ぬふりをして言い訳をする教育機関も典型多岐なnegativistです。
そういう中で公的コントロールを行うべき省庁が悉く消極的で、法整備も、対応機関の改革も大幅に遅れています。政治家も批判と言い訳に時間を浪費し,大きな社会問題になっているこういう問題への迅速かつ厳格な諸整備を行わずに時間を浪費している中で、省庁は守りに回って大幅な変更や新たな機能の整備を行っていない事実を見ても、政も官もnegativistであり、negativistの日本人、日本と言う国を加速させているという認識を持つ必要があります
では政官財の、財、即ち企業の状況はどうでしょうか?企業差があることは言うまでもありませんが、直近の株価の回復と、企業収益の改善と言う明るいニュースがあるものの、その要因を冷静に見るとグローバルな余剰資金が出遅れで過小評価を受けてきた日本への投資を積極化したことや、その結果の新NISAへの官民挙げてのプロモーションと、ポジティブな株価の動向を見て個人が運用に積極的になったこと、企業業績側もマクロ的に見ると、コロナ禍の低迷からの回復やその後の価格アップを容認する世情の中での値上げ効果の要素が大きく、その中で値上げ効果を除いた事業で、前向きに大きな付加価値を創造するイニシアティブに成功したり、大幅な進化の結果大きく発展した日本企業はかなり限られているというのが現実ではないでしょうか?
企業の中はどうでしょうか?人口の大半を占めるホワイトカラーの状況はどうでしょうか?マクロでは、仕事を生活や仕事以外のライフを楽しむための“義務”としてとらえ、ワークライフバランスを考えない日本のホワイトカラーはほとんどいないでしょう?と言うことは、時間の半分近くを占める仕事自身が、本当の意味で喜びや充実感を与えていないということです。その原因は複合していますが、頭脳労働であるはずの仕事が、連日同じことを処理するルーティンワークで終始していたり、考え、新しいことに挑戦し、付加価値を創出し、その結果誰か、会社、社会の進化に貢献できたという喜びが味わえる仕事をできていない環境が半世紀近く続いている、つまりホワイトカラーのブルーカラー化が進んできたのがこの半世紀の日本の姿だったのではなかったでしょうか?本来の日本人は後に述べる優れたpositivistの人種であったことは、歴史が証明しているところだと思いますが、その日本人が、幸福度、希望、期待感、満足度、積極性等の面で、先進国の最後尾に陥落した状況にあることは、先に述べた日本で起きているいじめや個人攻撃等とも合わせて、日本人がnegativist化していることの証拠と言えるでしょう。
その大きな要因が、政、官の影響下の社会のnegativist化に加えて、企業経営や組織のマネジメント自体のnegativist化にあるという認識が必要です。そもそも企業活動と言うのは日々業績につながる活動を行っているわけですので、その意味ではよりpositiveな活動であるはずです。ただ、今の企業経営がここ半世紀ぐらいの間に大きく変化したのは、様々な技術や事業モデルの進化と、スマホ、インターネット、AI等の情報の大幅な進化の結果、従来よりはるかに迅速かつ大きな企業進化と継続的で新たな付加価値創出の実践が求められるようになったことです。この尺度を現在の多くの日本企業に当てはめてみると、多くの日本企業が進化の度合いとスピードにかなり乗り遅れていることは事実だと認めざるを得ません。そういう状況の中で、会社の成長、収益力が鈍化するとともに、社員の仕事のマンネリ化や処遇改善が遅れてきたことが現実です。
政府の新資本主義等に盛り込まれた内容や、多くの企業のビジョンは長期方針で述べられているテーマの多くは、今世界を牽引し始めている技術や分野のキャッチアップが多く、自社が独自のやり方での進化やイノベーションで迅速かつダイナミックに動きリードするという感じの、positivistの視点の議論があまり見られない印象です。そういうことを考えると、想いや意図はそうでなくても、結果的な行動と結果がnegativistのものになっている印象は否めません。
Positivistとは?日本についての、positivistの見方は?
ではnegativistに対する、positivistとはどういう人でしょうか?positivistと楽観主義者(optimist)とは違います。どこかの開国の国民のように、誰が考えても倫理観や信頼感からほど遠く、犯罪行為も行い、自己中心的な行動が最優先の大統領候補を、60%以上の人間が熱狂的に支持する国民とも違います。ここで定義するpositivistは、無条件に物事を楽観的に見る人や正誤の判断もできずに猛進する人間でもありません。Positivistは①物事を客観的に、分析的にfactベースでみられる人材であり、②その優れた面を正しく理解して評価できる人材です。そして、そういう③分析的な目でプラスの要素を正しく理解し、④マイナス、問題点や未検討な課題を理解した上で、⑤それに対する活用方法や課題の解決方法を考える人です。更に企業や社会に貢献するpositivistは、⑥それ等を自己、自社、消費者や社会の為に有効利用することに邁進し、貢献できる人財です。更に言えば、優れたpositivistは、⑦高い倫理観や優れたprincipleを有し、⑧優れた分析的でプラス思考で、創造力がある能力があり、⑨他人や組織、社会に貢献する喜びを知っており、⑩そういうモティベーションで行動し、⑪結果を出せる人材です。
これ等を完全に満たせる人材ばかりの国は今のこところ見当たりませんが、実は高度成長期までの日本は、国民としても、国としても positivistの国だったように思います。長い歴史の中で、日本人はバランス感覚に優れ、思考力もあり、逆境の時でも創意工夫して、道を切り開く能力に長けた国民だったと思います。世界広しと言えども、社会倫理、職業倫理の高さや逆境にもめげず前向きに努力する国民はそれほどいません。その判断力とバランス感覚は、自民党があそこまで問題を露呈し、野党がそのあら捜しにエネルギーの大半をささげて攻撃しても、そう簡単に野党になびかないのもそのバランス感覚がまだ残っていることでも現れています。日本人が明治維新、開国、敗戦、駐留、後発・低品質からの離脱、数々の経済不況、国際合併等の大きな変化に対して柔軟性がある対応ができたのも、positivist日本の能力だったと思います。
しかし、そういう日本人で構成されているはずの日本は、半世紀ばかりの間で、今やnegativistの集団になりつつあります。先に述べた日本のnegativist化の兆候はすでにコロナをはるかに超えたレベルで広範囲に蔓延し、増殖を続けています。その意味では本当に危機的状況です。日本がこのままnegativist症候群から抜け出せなければ、日本の存在や影響力はあっという間に大幅に落ちて行くでしょう。
Positivistから見た日本復活の可能性
一方positivistの視点から見ますと、それを変えることは比較的短期間にできる可能性もあると考えています。その理由としては、
l 日本のpositivistの国民性は、かなり長い歴史によって形成されたものであるのに対して、negativist化した期間は、おそらく長くて半世紀であり、その間これに対する手は全く打たれなかったばかりか、その逆に、政官財マスコミはこぞってそれを放置し、加速化する行動をとっていたことが原因です。
l いじめやネットによる悪質な攻撃等の極端な蔓延は、20年前後の期間で急速に進んだ現象でした。
l 極端なnegativistの増加やnegativist的な言動が進んだ半面、より社会性に富んだ発想や行動も徐々に増加しつつあり、positivistの様子がまだ日本人の遺伝子には残っている兆候も見られます。
l 大きな影響力がある政官財、マスコミも今の瞬間はnegativist病に侵されていますが、これ等のインフルエンサーが日本の状況と危機を心底から正しく理解し、ポピュリズムや一時期の反対やバックラッシュを恐れず、完全にベクトルを合わせ、その動きと矛盾することは徹底排除し、団結して大幅な軌道修正に取り組むことができれば、短期で起きた変化を早く軌道修正する可能性は十分あります。
l 政官、マスコミのベクトルが合ったpositivistの動きを行うことと並行して、国民の時間の半数近くの時間を過ごす場である企業においては特に、思い切ったpositivisticな活動と業務に進化させるとともに、社員に労働時間の短縮、セカンドジョブの許可、賃金のアップ等の戦術的な施策だけではなく、仕事を通じて社員が日々付加価値を創出し、それによって進化に貢献する喜びが体感できるような仕事の仕組みを早期に構築することができれば、positivistへの回帰はかなり早くなるはずですし、それによって作られた日々の付加価値や会社やサービスの進化によって、会社と社員のwin-winの正の循環が作られるはずです。
l 既に汚染された倫理観、価値観、正誤の判断を大幅に軌道修正するとともに、今日のテクノロジーや理解する方法に合わせた教育を徹底して行うことができること。そして、そういう軌道修正とともに、日々の仕事で達成感や楽しさを実感し、人や社会に貢献する喜びが、それとともに付与される貢献型報酬とともにpositiveな気持ちのサイクルを生むような体験を日々させることがpositivistの増加を加速化させるはずです。
l 政官財マスコミ自身も、自己の大幅なpositivist化へのチャレンジを大胆に行い、自分が責任を持って影響を与えられることを改廃し、新たに実施することはかなりのチャレンジだが、関係各方面がベクトルを合わせて難局を乗り切る覚悟があれば、過去の様々な危機を乗り切ってきた日本がかなり短期間に軌道修正できる可能性があります。
個々の課題の原因分析と具体策を本稿で語り作ることは不可能ですが、この星火燎原に掲載してあるアーティクルや雑感、これから順次追加していくものをお読みいただくことにより、皆様方がpositivistとして日本を大幅に進化される活動の一助となることを、祈っております。
前回の星火燎原で、最近Negativist化が甚だしい日本が、Positivistに転換することを提唱しました。この目的は、日本社会もそうですが、日本社会の労働人口の大半を占める企業人が日々付加価値を創出し続け、日々進化する人材に転換することにつながり、それによって企業と社員が限られた収益を分け合う現在の姿ではなく、win-winの関係で双方が繁栄し続けるサイクルを確立することです。これは夢物語ではなく、既に一部の企業の中で行われたような試行を全社的な活動にして、全社、全社員を付加価値創造型の組織に転換することです。
実は、私自身がコンサルティング、プライベートエクィティファンド、ベンチャーサポート、マネジメント等の長いプロフェッショナルの活動を通じて行ってきたことも、それをマイカホールディングスと言う組織で行おうとしてきたことも、Positivistとして付加価値創造型の進化をお手伝いすることでした。
本稿では、これまでのその一部の事例をご紹介しながら、今マイカとして進めつつある活動の一部をご紹介したいと考えています。
付加価値創造型のアプローチ
ここで定義する付加価値創造型の活動とは、通常の合理化活動や、リストラ、不採算事業の整理や、ファイナンシングの手段によるキャッシュフローの改善とは異なります。スケールメリットを追求することとも異なります。こうした企業の取組も業績や株価には影響し、やり方によっては企業力のアップには貢献しますが、こういう手段により作られた資源や新たな機会につなげる付加価値創造活動とリンクしなければ、刹那的な施策、一過性の施策に終わってしまう可能性があります。最近の企業の成長戦略の手段として、大型の企業買収や合併(次ページの図でM&A)が検討されるようになっていますが、付加価値創造型の活動を伴わなければ、単なる足し算であり、せいぜいスケールメリットによる合理化程度に終わってしまい、M&Aに伴う巨大な資金負担、債務負担が残るだけです。つまりこういう施策の有効性を高めるためにも、positivistの集団、付加価値創造型の組織であることが必要です。
最近政官財を上げて提唱されている、先進技術へのR&D(次ページの図のIT)、新規事業やベンチャーへの投資も付加価値創造型の進化への芽となる可能性はありますが、余程明確で具体的な構想と成果の加速化の目途が無いとその成果が自社の大きな付加価値や進化に貢献できるのはかなり先になる可能性がありますので、それだけに付加価値と進化を期待することは十分ではありません。
一方、多くの伝統的日本企業の中では。コア事業の成熟化に直面しており、従来のモデルでのグローバル競争力が無くなり、脱コア事業化を図っている企業が多くなっています(次ページの図のDC)。政官財マスコミの視点も、新技術やグローバルな成長分野への投資をプロモートしようとしていますが、そういう中で従来のコア事業はイノベーションの視点で見るとその潜在的可能性がかなり過小評価されており、盲点になってきている懸念があります(次ページの図のCI)。確かに歴史がある事業で、伝統的事業モデルが継続されている事業は、コスト高の国からコスト安の国へのシフトが起こることや、新しいモデルに置換されていく宿命はあります。ただし、私がこれまで見てきた様々な”成熟化とみなされつつある産業”をより広く業際的な視点、イノベイティブな視点で見ますと、事業やサービスモデル、異業種や新たな技術を複合しながら、付加価値創造型の視点でコア事業を見直しますと、大きなチャンスがある業界がかなりあります。事実、GAFAM等を除いた業界の中で優秀な業績を上げ続けている企業の多くは、業界としては成熟化しつつある、成熟化している産業をイノベーションしたり、付加価値創出に成功した企業です。
成熟事業における付加価値創造型アプローチの事例
マクロの視線で日本や日本企業を見ると、こうしたpositivist型、付加価値創造型に全社・社員が転換できた企業はかなり少ないと思いますが、ミクロで見るとそういう伝統的企業の中でも付加価値創造型の進化の芽は色々見られます。以下に私が経験した伝統的大手企業によるイノベーション(CI)の例を2,3例示しますが、要するに従来のコア事業、コアサービス、コア顧客をイノベーションの視点で再構築したり、進化させることにより付加価値創造型の事業やチームが形成され、当該企業にとっての永続性がある進化の動きとなったケースです。
l 耐久消費財メーカーのコアスキルと事業プロセスのノベーション:
Ø これはかなり以前の事例ですが、私がある中堅の耐久消費財のメーカーの事業戦略にコンサルタントとして呼ばれた時に、その企業は様々な良さを持ちながら競合企業との差別化が難しく、顧客からの強い支持を受けることが出来ず、業績も安定しませんでした。その中で、Positivistの視点で様々な状況を分析的に見た結果、その一つの発見として、その市場の消費者の目から見ると、日本メーカーは、機械の性能や価格、品質と言う要素には満足していますが、デザインと言う点ではそこまでの魅力を感じていないことが明確になりました。そして、その原因の一つには、その企業の中では機械の設計技術者がまず基本設計をしてデザインがそれを受けてデザインするという流れになっており、デザイナーの地位や能力も低いということが伝統的な事業モデルでした。
Ø そういう中で、私と一緒にプロジェクトを進めていたメンバーがトップに提案したことは、デザイン関係の業務を大幅に強化すると共に、製品開発のプロセスを変更し、デザイン部隊が基本デザインを提案し、それに基づいて設計がメカトロニクスをそれに合わせて設計することに変えることでした。更に日米欧でデザインセンターを作るとともに、デザインのリーダーをスカウトして進める等、様々なイノベーションでした。
Ø その企業の社長は、設計出身のpositivistの方で、提案を受けた全社方針の伝達の時に「設計はデザインに奉仕せよ」という方針で、デザイン力を大幅に強化されました。その後もこの動きは40年以上様々な進化を続け、製品ラインの整理とデザインの統一、企業ブランド・ロゴ化、消費者ニーズに即した商品の上市、等の動きで、ことデザインに関しては業界髄一の評価と商品の高付加価値化を継続しておられます。
Ø こうした設計とデザインの事業モデルをイノベーションするというイニシアティブの成功体験に基づいて、それを全社、全社員の付加価値創造と進化に高めることは今後のチャレンジ課題だと思いますが、伝統的事業のイノベーションと言う一つの例だと思います。
l 一般消費財メーカーの低迷製品ラインのイノベーション:
Ø これは私がある一般消費財メーカーの副社長の方からの要請で、無料奉仕で行った月一回のブレーンストーミングの中で起こったことですが、その企業はその業界では独自性がある優れた製品とイメージを持っておられた企業でしたが、後発で参入した製品分野での競争力と事業収益の問題を抱えておられました。
Ø 色々のテーマでのディスカッションの中でこの話題が出た時に私は、「貴社はほとんどの商品でプレミアムの商品で高いシェアを持っておられるのに、なぜこの商品群だけは他社と差別化ができないコモディティーラインで後発参入し、価格競争に明け暮れるやり方をしているのか?」と申し上げ、色々議論しました。
Ø この副社長も、positivistの方でしたが、その言葉を徹底的にお考えいただいた結果、他の製品ラインと同様に、コモディティー商品で量を追うことから発想を切りかえられ、製品を差別化したプレミアム商品を即時開発され、優れたブランドマーケティングを行われた結果、そのハイエンドセグメントでドミナントな地位を迅速に確立されるとともに、他の製品ラインも一貫したプレミアム戦略を展開され、グローバルなプレミアムブランドのM&Aを進めておられます。
l 業務用・家庭用耐久消費財のイノベーション:
Ø この企業はもともと見方によっては成熟化途上にある業界の中で、positive志向のイノベーション型の企業でしたが、ある時、依頼されて、その企業の事業戦略について、2回のビデオ会議で幹部とのかなり長時間のプレゼンとディスカッションを行いました。
Ø その時に私がお話ししたことを、ここでご説明しているコンテクストでご説明しますと、
² その事業は先進国の中では長い伝統がある事業で、地域地域での市場リーダーが固定化し成熟化事業であるように見えるが、より広いイノベーションの視点で見ると、伝統的に思える事業は、イノベーションの視点で見ると極めて大きな可能性があり、今後グローバルに大きく進化するポテンシャルがある。
² 狭義の定義で見るとこの事業は閉塞しつつある事業のように見えるが、より広い視野、この事業が関係するグローバルなマクロの変化においては、この業界でイノベーションの能力がある企業にとって大きな可能性がある
² 事実業界の定義を関連分野に広げて見ると、新しい技術や事業モデル、サービスが登場しており、これ等とコア事業を複合するような広い視野での事業展開を行うことにより事業の広がりがでる
² これまで世界は地域ごとに異なった技術、固定した数社が支配していたが、この企業が日本で進めきた技術が他の地域でも競争力がある技術になる可能性が高いので積極展開をすべき
² この企業はグローバルな視野で事業展開しておられるが、発展途上国を含めた国情に合わせた事業モデル、サービスモデルを進めることで、更に大きな可能性がある
Ø 等の内容でした。その後の同社の展開を見ますと、こうしたアドバイスを含めて積極的な技術と事業の多様化戦略を進めながら、発展途上国への市場密着型の事業展開と、その国に合った新たなサービスモデルの展開に積極的に取り組まれています。
l 成熟技術、成熟市場をベースにして新たな付加価値と市場機械を創造しつつあるベンチャーの、イノベーションのサポート:
Ø このベンチャーは日本では成熟化して既に日本から多くのディバイスが中国や海外に移り、伝統的顧客市場も成熟化している事業をベースに、その事業をイノベーションの発想と様々な他の技術と複合することにより、独自の機能を発揮できるシステムを作るとともに、それを使って、成熟化している顧客の付加価値創造を実現できるサービスに取り組んでいる企業です。
Ø 弊社マイカホールディングスが本格的に参加してまだ数年で、まだまだ不完全なこと、進化させるべきことは多く残っていますが、そのベンチャーが成熟市場、成熟技術のなかで挑戦しようとしていることは、①日本の企業にありがちな自前主義から脱皮し、自社の役割を絞って、海外も含む様々な企業と協力しながらイノベイティブな事業を推進するという仮想型の経営モデルによる、グローバルで大きな事業の推進、②グローバルなオペレーションの展開のために、自社の人員を少数にしながら、外力の活用とともにオペレーションの自動監視、リモートコントロールにエキスパートの人間が適宜参加する形の、デジタル・アナログサービスモデルの確立③成熟化技術と思われている中で、全く違った視点で他業種や異種の技術を複合することで、数多くのグローバル特許を取る体制と、それを活用した応用モデルをpositivistでイノベーションに積極的なコアとなる顧客と一緒に具体化して、次々と応用モデルを広げる展開、などです。
Ø まだまだ未完成の事ばかりではありますが、遠からずイノベーティブで巨大な付加価値を上げる企業に発展するだろうと思ってます。
これらは極一部の事例ですが、それらの例の共通点は、どちらかと言うと成熟化しつつあり、見ようによっては競争相手とともに縮退のリスクが有る事業において、新たな視点や異なった業種からの技術や視点を取り入れ、付加価値の創造とイノベーションに取り組んで大きく発展しつつある点です。
付加価値創造型組織、人材への転換の難しさ
一方、そうした企業でも、まだほとんどの企業で確立できていないのは、社員自身をルーティンワークのブルーカラー型で働かせるのではなく、組織全体がPositivistでイノベイティブ、社員一人一人が日々新たな付加価値創造に貢献し、それによって社員一人一人が仕事への興味・満足感を得ながら、会社と社員がwin-winのポジティブなサイクルを確立することです。
個別の付加価値創造とイノベーションによる成功を行うことも、多くの伝統的大企業組織ではそれ自体かなりのチャレンジです。ましてやそれを組織全体・全社員に波及するためには、イノベイティブな視点に基づくコア事業のイノベーション、日々の継続的付加価値創出、結果的な進化という一貫した方針の下に、様々な施策を粘り強く推進していく必要があります。もう一つの課題は、ここ半世紀にわたるグローバルな変化の中で、会社別、機能別な社員の違いよりも、年齢層毎の社員の層の違いがかなりあり、その結果、付加価値創造型社員を育てるアプローチが大きく異なる可能性があります。
その差の原因は様々ありますが、①スマートフォン、SNS等が生まれた時から存在しており、そこからの情報の影響が大きい状況に育った層であること、②変化が甚だしいここ半世紀ほどの日本と世界は、10年位のスパンで社員が育ち、経験した社会の状況や、企業の状況がかなり違うこと、③特にスマホSNS世代以降の社員は、社内の人間関係、情報や仕事の比重と、そういうメディアを通じた外部の人間関係や情報、生活の比重が半々、乃至は社外との接点の方がマインドも含めた影響が大きい可能性があること、などが考えられますそういう層にとっては、会社自身もnegativist的マインドと経営からの脱皮を苦労する状況の中で、従来の会社が企画し会社がリードした教育と育成での教育効果の歩留まりが低くなるリスクが有り、異なったアプローチが必要だと考えます。
成長期を超えた成熟経済に入った国としての日本、グローバル競争力が低下した日本人と言う誤解とnegativist的発想から誤った限界と悲観的見方から脱して、positivistで付加価値創出型の日本、日本企業、日本人に転換できるやり方や可能性がかなりあることをご理解いただけると幸いです。
ロシアによるウクライナの侵略、中国による不当な領土の占拠と基地の建設、北朝鮮による危険極まりないミサイルの発射。こうした明らかな不当行為を世界は止められません。国連も、国際法もこうした暴挙には無力だということが露呈しています。チャットGPT等の先端技術は、誤った情報が事実として拡散されるリスクがあります。グローバルな貧富の様ますます拡大し、様々な先進国で社会の分断や政府の不安定化が増しています。世界の盟主たるべき米国でも、トランプ氏のさまざまな不法行為や暴挙が次々に明らかになっている一方、その人気は逆に上がっており、それを覆す対抗馬も出てきていないのが現実です。Glass is half emptyの発想だと世も末だというあきらめにつながります。
一方、Glass is half full、つまりまだワインは半分残っているというプラス思考で見ると、最新の技術や、その技術を活用したサービスや事業モデル、仕事の仕方は、かつては考えられなかったような数々の福音をもたらしています。スマートフォンとSNSのグローバルな普及はかつて先進国と途上国の間や、貧富の差による情報格差、情報の格差を大幅に無くしました。
アバターをはじめとする映像技術の発展は、人間の体感と言う経験、距離や時間の壁をかなり低下させてくれました。コロナ禍でのウェブ会議の急速な普及は、仕事の距離や拘束時間の制約を打破するとともに、従来の仕事の仕方、所要時間、情報の共有化、参加人員、慣習、固定概念から人間を解放してくれました。従来会議室であった席順、階層意識、顔を見合わせて発言をためらう等の慣行は、ウェブ会議ではなくなりつつあります。 コロナが強要しウェブが開いた在宅業務の道は、従来不可欠だと思われていた仕事の仕方や業務の価値が実は無くでも支障がないという現実を明らかにし、マンネリ化し付加価値を生んでいない業務から人間を解放してくれる可能性もあります。
ロボットは人間の仕事を奪うというネガティブな議論がありますが、ロボットは人間のルーティンワーク等の負荷を開放してくれ、本来の人間固有の役割であるアナログで頭を使う業務への時間配分を可能にしてくれます。
情報格差を無くそうとしているSNSやネットワークサービスは、日本の辺境の地の弱小商店と、地球の反対側の一消費者を瞬時で、しかも無料で直接結び付けてくれます。辺境の地の一商店が全国的に認知され評価される結果、その商店の顧客は少なくとも一桁以上拡大するでしょうし、グローバルに認知され評価されれば二桁、三桁に拡大する可能性をもたらしてくれるでしょう。
DeepLは膨大な文章を無償で瞬時に、しかもかなり高品質の外国語の文章に翻訳してくれます。チャットGPTは知りたいことをささやけば、瞬時でかなりのネット上の情報を提供してくれます。こんな技術があっという間に普及するとは、10年前には考えられなかったことです。こうしたIT関連技術の能力が、プロのレベルと互角になってきている分野は、将棋、チェス、法曹界の法令検索、翻訳や通訳、かなり高度なQ&Aや案内・問い合わせ、医療の診断、様々な交通手段の自動操縦、監視、絵画や芸術、執筆、作詞・作曲、設計、広告・宣伝、加工や物流、工場労働等枚挙にいとまがありませんが、この大半がこの10年近くの間に現実になったということは、考えられないようなチャンスです。
地政学的な問題もそうです。ネガティブ発想で考えると、ロシアの暴挙を国連も止められてはいませんが、ポジティブに同じ事象を見ると、あの弱小国のウクライナが一年余りもロシアと互角以上に戦い、場合によれば勝利を収める可能性も出てきています。
日本のグローバルな地位も経済力も大きく低下しており、人口もどんどん減ってきています。しかしながら、その理由は日本や日本人が持てるものをフルに出した結果ではなく、日本や日本人が持っている能力や潜在可能性をほとんど生かせていないことにあります。昨今、政官財が行おうとしているアクションや考え方は、日本や日本人が低迷している原因とも、行うべきアクションとも外れていることがほとんどです。評論家大国の日本の中で、「日本の政府や官僚が駄目だ」とか「企業が駄目だ」とか、「日本人が駄目だ」とか言う、いわゆるネガティブな論評は氾濫していますが、ではどうするかという正しい方向のコメントはほとんど見られません。だからこそ、日本にはかなり大きなポテンシャルがあるという「Glass is half full」の発想で正しく原因を理解し、行動できれば日本は大きなチャンスを持っています。
それこそが「星火燎原」でお伝えしたい最も重要なメッセージですし、これから順次掲載させていただく様々な書簡がその道標になることを願っています。
表面的な先進国の視点でマクロ的に世界の経済の推移を見ていくと、第一次産業中心の経済から、重厚長大やメカニクスを中心とした工業産業中心の経済に移行し、それを放棄して金融産業に舵を切ったイギリスのような例を除くと、多くの先進国はエレクトロニクスとソフト、Ai中心の経済、DX化に移行しようとしているように見えます。残された“伝統的工業”、いわゆる”ハード中心とした物“は中国を含む発展途上国に移行し、先進国はこういう産業は空洞化しています。
そういうトレンドを見ていくと、日本も上記の先進国の経済を中心に舵を切るということになりそうですが、その考え方には重要な盲点があると考えています。
確かに様々な工業製品を見ていますと、これまでハードと人間が担ってきた役割をエレクトロニクスとソフトが吸収し、人間の関与を最低限に抑え、基本的性能が標準化され、均質の性能や安全性が確保できる方向への移行がほとんどです。ロボット化も含めて、これは一つの重要なイノベーションの方向です。
ただ一部の例外を除きますと、ハードと人間、そのハードが処理したり接触する素材や他のハードとソフトの接触、つまりinterfaceは無くなりません。ハードとソフトがいかに基本性能が良くても、こうしたディバイスとそれらを結合するインターフェースによって結果が劇的に変わることへの理解が必要ですし、この重要性は変わりません。そうしたマシーンがどんどん高度化し競合化が進むと、インターフェースの重要性、インターフェースの視点でマシーンやソフトを見ることはますます増大すると思います。
これを少し具体的に理解していただけるように、三つの事例を簡単にご説明します。
一つは、今私が一緒に事業を推進している環境関連事業です。この事業は、日本では空洞化し製造が海外に移行してしまった伝統的ハードと、特殊技術を複合して、バイオ関連素材を処理して再資源化するシステムを提供し、そのサービスを推進しています。その処理する素材はかなり多岐にわたり、その状態も多様ですので、その最適な処理を行うには様々なinterfaceを効果的にマネージする必要があります。しかも設置場所により地質や環境、気候も異なり、関係する設備も複雑です。その加工プロセスや調整、成果物も多様化していますので、かなり複雑なman-machine interface, machine-machine interfaceのマネジメントが必要です。無論こういう状況下で活用する機械についても、エレクトロニクス化、自動化が一つの方向ですが、それにしても途上国のメーカーとソフトだけでこの複雑なinterfaceを最適化することは極めて困難です。今や日本の中では人材が空洞化している優秀な現場技術者によるinterfaceのマネジメントが不可欠です。これは一番interfaceのマネジメントが成否に影響を与えるケースですが、より身近な例として自動車を例にとって考え見ましょう。
自動車は、業界の常識を破ったやり方でEV化と自動車産業に超後後発で参入したテスラにより、かなり混迷化が進んでいます。確かにテスラは自動車会社の常識を覆したやり方であっという間に業界最大の企業価値をあげるまでに成長しました。ただ、テスラを見ていますと、色々なイノベーションをしていますが、ユーザーから見たinterfaceでは完成度は高くありませんし、ユーザーのニーズを十分満たしていないのが実態です。 それに対して他の伝統的自動車メーカーはどういう対応をしているでしょうか?環境問題への対応やEV化、エレクトロニクス化、グローバル競争等々、自動車メーカーは様々な戦いをしています。ただ、自動車に関するinterfaceという観点から見るとまだまだイノベーションする余地はたくさん残っている気がします。これを言い出すと枚挙にいとまがありませんが、例えば顧客とのソフトインターフェースである、デザインの完成度においては、欧州の数社と日本の一社以外は、完成度がまだ高いとは言えません。
車の機能に着目しても、セダン、ステーションワゴン、ワンボックス、SUV、ハイブリッドやEV等のプラットフォームや3次元的構造の基本は、大手メーカー間でほとんど差がなく、ユーザーの多様なニーズに柔軟に答えることはできていません。例えば、現在かなり人気がある大型犬を後席で乗せるために必要なシートスライド機構は、一部の大型SUVかワンボックスに限られています。それは車輪や電池等の制約と、スライドをどう工夫するかというところでのイノベーションが足りないことに他なりません。無論標準化やコストダウンという理由もありますが、これを両立すること、つまり “or ” を “and” にする創意工夫が足りないということだと思います。
日本が車の世界的リーダーシップをとれた高度成長期においては、米国のフォード式のマスプロダクション、メーカーの都合による顧客への製品の押し付けへのイノベーションとして、コストの常識、機能の常識へのチャレンジや顧客フレンドリーな車作りを徹底することにより顧客の支持を急速に拡大してきた歴史がありました。EVやテスラの登場は自動車メーカーの伝統的個体概念を一変させるはずです。そういう中で、顧客と車のinterfaceのニーズや顧客感度の高いことへのフレキシブルでフレンドリーな対応の余地はたくさん残されているはずです。
自動車と同じ耐久消費財であるスマートフォンにおけるアップルの成功は、典型的なinterface戦略の継続的でスピーディーな実践の成功例です。世界中の消費者がなぜ馬鹿高いアップルのスマホを買い、アップルと言う巨大企業の巨大な利益をほぼ単一商品が稼いでいるのかといえば、それはアップルが消費者の琴線に触れ少し先を行く優れたデザイン、ハード、ソフト、コミュニケーションや各種サービスの機能とその統合と継続的な進化の努力を行って、他の追従を許さないからです。日本の企業で最も元気が良かったソニーの製品も、それを開発するエンジニアがそれを自ら活用するプロであり、その目で優れたinterfaceを実践してきたからです。そういう成功者の事例から見ろと、最高額の耐久消費財である自動車における、interfaceの追求努力はまだ全く不足しているというのが印象です。
日本が高度成長で様々な製品で世界をリードしてきた時代は、日本はまだ製造、営業等現場型の人口構成であり、今のようなデスクに座って考えたり、図面を引くサラリーマンが大半ではありませんでしたので、機械と人、機械と機械、素材と機械、ソフトと人等の接点は常にありました。ただ現在は、ほとんど現場、現実、現物に日常的に触れている人間はマイノリティーになっている職場がほとんどです。大半の人間が仕事では現場、現実、現物との接触密度が少なく、現場での創意工夫を日々行うこと無しに、決められたことを淡々とこなすことが日常になっている傾向があります。特に、多くのインターフェースが必要なハードウエアが空洞化している日本で、ロボット化やDX化が進んだ環境において日本のコアコンピテンスであったはずの現場や顧客フレンドリーな創意工夫能力迄が空洞化するリスクがあります。
今後の世界はDXやAIロボット化等が進んでいく一方、今後の大きな課題であるSDGsやGX、エネルギー革命、食糧問題、ヘルスハザードの解決には、メカニクス、エレクトロニクス、バイオ、第一次産業との複合等、かなり複雑なinterfaceへの効果的対応が必要になり、その中の多くは人間が現場、現物、現実に密着した対応と創意工夫が必要のなってくると考えます。先端スキルへのリスキリングと同時に、そういうinterfaceの経験と創意工夫をどう醸成していくかの検討も急務でしょう。
世の中では盛んに規制緩和が叫ばれているが、遅々として済んでいないのが実態のようです。民の感覚は、官がそこまで規制することは不当だとか、憲法に定められた”自由“の侵害だとかの感覚があるようですが、官からすると、規制の緩和や廃止はその弊害もあり、その緩和の結果マイナスを被る民やそれをサポートする政治家からの反対もあって、そう簡単には踏み切れないという事情もあるようです。もう一つの隠れた背景には、官の役割や政治とのパワーバランスが年々低下しており、規制緩和は官の圏域が縮退してくる感覚があるのではないでしょうか。
一方、規制緩和や廃止が必要な理由は、民の側の要望や被害者意識があるからではなく、その規制が必要であった時期から、その後の環境や技術の大幅な進化の結果、その規制が必要な理由や規制の仕方に意味がなくなり、更にそうした規制が進化や新たな付加価値の創造の障害になるからです。無論どんな変更や廃止でも、マイナスやリスクが全くないケースは少ないと思いますが、その規制緩和や廃止が与える大きなプラス効果が廃止のリスクを大幅に上回るものであれば、積極的かつ迅速に実施すべきでしょう。
ただ、そこで忘れてはいけないのは、そうした新しい技術や変化は違った種類の規制やコントロールが必要になるという認識です。昨今の仮想通貨や新たに登場してきている金融商品、AIやDXの技術を始めとする新しい技術やサービスの登場は、その結果の大きな弊害や被害者を生み始めています。SNSを始めとする情報・コミュニケーション技術がグローバルに広がったことは、情報格差という弊害を軽減する効果はありますが、一方ではそうした技術革新によって生じる弊害や被害の範囲を大幅に広げています。
こうした技術革新は、「言論の自由」や「取捨選択の自由」と言う自由主義の根幹をも変え始めています。個人的発言や表現や新聞、出版、公共メディアを通じての言論の自由は、報道の自由ということによってある程度の社会的取捨選択の過程が入っていました。個人も、聞く、聞かない。見る、見ない の自由度を個人が持っていました。しかしながら、スマートフォンとSNSのグローバルな普及は、こうした受け取る側の自由度を阻害し、氾濫する情報の正誤の判断を困難にしています。その結果過去とは違った被害や社会問題を引き起こしています。
従来から犯罪について言われていることは、犯罪者は常に規制当局に先んじて新たな犯罪を考案し、規制当局が常に後手に回るということです。SNS、スマホの普及は、犯罪者の優位性をますます拡大し、犯罪と知らずに犯罪を犯す “潜在的な犯罪者”を等比級数的に増やしています。こうした様々な変化のスピードが加速している今日、政治家がこういうことをスピーディーにかつ正しく解して鵜どうすることはほぼ不可能です。
そういう視点で考えますと、今の世だからこそ規制に限らず、世の変化に先立って、センサー、アクセル、ブレーキ、ハンドルの役割を果たす、テクノクラートとしての官の役割がますます重要になって来ています。
官の役割は規制ばかりではないことは、言うまでもありません。しかしながら今後の社会の進化のブレーキになっている規制をスピーディーに改変する事は急務ですし、それと同時に新しい技術や進化の潮流の中で、新しく効果的な規制を早期に導入する、即ち規制を改革することも官の重要な役割です。
日本の企業の低PBR(株価純資産倍率)が、色々なところで問題視されています。その批判の多くは、「大きな純資産に比して低い時価総額でしか評価されていない企業即ち、低PBR企業が万一買収されると資産をバラバラにして売却された方が儲かる(だから買収のターゲットになる)」とか「こういう企業の株は過小評価されている」「資産価値にふさわしい業績をあげられていないので、経営への意欲がない企業と見なされ投資家の評価が低い」等のようです。
これ等は無論低PBR企業の課題への指摘としては、間違っているわけではありません。ただ、私はこういう企業と自己株式の購入で株主還元と株価をあげようとしている企業は、ある種の共通点があるような気がしています。その辺は後でお話しすることとして、低PBR比率の企業をについて考えてみましょう。
釈迦に説法ですが、PBRは株価÷準資産であり、PER=株価÷利益という関係ですので、この両方が低い企業と、どちらか一方だけが低いケースでその問題点は違います。いずれにしても資産、借入金、収益、株価評価が著しくアンバランスだということになります。本稿は財務戦略を説明することが目的ではありませんので、資産の流動化やオフバランス化等の戦術の言及は割愛しますが、経営的に見ると、これは個々40年近くの間の経営環境の変化と、いくつかの経営判断の問題につながる課題です。
まず80年代以前の経営は、特に日本の大企業の状況は急速な経済成長と戦後の日本企業のゼロからのスタートの結果、成長のための投資資金は借入金が中心で、その使途も設備やコア事業の投資に向いていました。投資回収は10年までの短中期投資が中心で、高い企業成長はそうした融資の返済を可能にしていました。従ってこの時期の日本の大企業は余剰資産を抱えるほどの余裕はありませんでした。一方バブルとバブルの崩壊は、その後40年間の低成長とかなり堅実な経営の結果、バランスシート上はかなり預金や金融資産が厚くなるとともに。収益志向の強化はますます収益と金融資産の余剰を生む結果につながってきました。
この経緯自体は特に責められる要素はありませんし、バブルの崩壊も含めた経営危機の経験からある程度の余裕資金を持つことは正しい経営判断ではありますが、一方ではその間に成長の代替案としてのM&Aや資金運用の手段も多様化するとともに、本業への投資についての代替案として、プロジェクトファイナンス、SPCの活用、投資先のキャッシュフローを活用したLBO(Leveraged Buyout)と言う投資・買収の方法、資産の流動化を促進するためのオフバランス化等のファイナンス手段が登場することにより、事業の成長投資とバランスシートの効率化を図る代替案がかなり増えてきました。
資金運用についても、従来の国債、公社債や様々な資金運用の手段に加えて、ベンチャーファンド、プライベイトエクィティーファンド等、事業の成長へのサポートと、ある程度参画と成功した時に単なる資金運用をはるかに上回るリターンが期待できる事業投資と金融投資がハイブリッドした資金の活用方法で、株主にも高い成長とリターンで報いることができるやり方も登場してきました。
つまり、自社の事業に投資してそこから事業成長とリターンを創出するといういわゆる(1)”産業の理論”に基づく経営と、(2)事業に関係がない形で資金を運用してリターンをとるという“金融の理論”に基づく経営という二つの経営の選択肢の中に、(3)両方の要素をハイブリッドしたスキームによる経営という選択肢が登場したということになります。
その時に金融業を生業としてこなかった(1)の企業の経営者として重要なことは、基本的に(2)または(3)にコアな活動をフォーカスしていくのか、(2)ももう一つのコアな事業の柱として行くのかの判断です。
歴史的には、80年代、90年代以降のGEを始めとして、(1)から始めて(2)をもう一つのコア事業として力を入れた企業の多くは、最終的に再度(1)へのフォーカスと言う方向に再度軌道修正して、(2)から撤退している企業もかなりあります。即ち、(1)の産業の理論と(2)の金融の理論はかなり異なったマインド、理念や価値観、成功要件があるというのが現実だということだと思います。
そういう中で、過去の経営努力でかなり拡大した総資産で経営を行っている企業にとって、(A)(1)の産業の理論による経営で自社の総資産の規模にあった収益規模に拡大する努力をできるか?(B)M&Aや前述の(3)への投資、様々な最新の資金調達のスキームを活用して、既存の資金規模よりも大きな投資を行って、大きな成果を追求するか、(C)それとも(1)の範疇でも例えば再生可能エネルギーのような長期に資金を寝かして中位のリターンをとるような事業にも投資をするのか?(D)(2)の金融投資のような形で運用利益を上げる形を志向するか?(E)総資産を縮小するために、バランスシートの縮小効果と、コストアップのトレードオフに留意しながら、オフバランス化等を図るか(F)それとも自社株買いにより株主への間接配当を浮動株の縮小による間接的な株主還元を図るか の選択に関する経営判断が必要です。
一般的には産業の理論で優れた経営力を持った企業の場合、(1)やM&Aによるリターンは(2)に参入しそれによるリターンに比してはるかに高いものになるはずですし、ましては(F)の自社株買いによる株主還元よりはるかに高いリターンが得られるはずです。多くの(1)の産業の理論の経営が自社のコアである経営者の方々にとっての悩みは、(C)のコア事業よりははるかに長い期間(例えば20年間)資金を寝かすタイプの事業に自己資金を投下するのか?それともそういう投資は大きな余剰資金を抱え(2)の金融の理論での運用にたけた方に投資機会を提供するか?それともSPC、LBO等のスキームを使って自社の投資を極力縮小するか 等の的確な経営判断が必要になります。
要は、PBRへの対策を計画する時には。(1)と(2)の世界の価値観や成功のカギの違いは、他の産業が想定する以上に大きいことを理解した上で、的確な経営判断をされる必要があることに留意される必要があると考えています。
既得権過多の日本と言うお話をしましたが、そういう日本人は与えられることになれて生きている、即ち人に依存して生きている傾向がある気がしています。逆に言えば社会や人を信じて、自分の運命を他に委ねて生きる傾向があるということです。
私自身は子供のころから丸暗記が不得手でしたし、一方的に教えられることに抵抗感がある子供でした。特に中学の高学年以降、その傾向がますます強くなり、中高大とつながっている私学で、高校への推薦に危うく漏れかけたという生徒でした。そこで一念発起して、記憶偏重でない自分流の受験勉強を工夫して、早稲田の理工科、MITの修士に進むことができました。私の父母の家系は代々大企業で仕事をしていたので、普通に行けばいわゆるサラリーマンの道に行くのが自然でしたが、そうやって与えられた生き方が嫌で、マッキンゼーの、しかも日本事務所ではなくNY事務所を受けて、そこからキャリアが始まりました。それ以降色々な仕事をしましたが、すべて自分で考え、自分で選択し、自分で試行錯誤して生きてきました。無論色々な方々から学ばせていただきましたが、そういう企業はその後今でいうエスタブリッシュメントのエリート集団で、そこに所属してある程度の結果を出せば報酬が与えられる企業になった会社が大半でしたが、私はその初期の試行錯誤と自分で道を開くことが終わると辞めてきました。
それが良かったということを申し上げるつもりはありませんし、私のキャリアの話が主題ではありませんが、ここで申し上げたいことは、私は既得権を持ち、生きてきたことが全くないのが普通であると信じて生きてきたという特異な人生を歩んできたのです。
そういう私から私の知人たちを見ると、「なぜ、大事な自分の人生を社会や組織から与えられる既得権を過信して生きられるのだろう」と不思議に思うことが多々あります。例えば最も大事なもののひとつであるはずの健康についてもそうだと思います。その例として、一少し長くなりますが、2年前に私が経験した脳梗塞のことをご紹介しましょう。
私は、7月7日の夕方に丸の内の永代通りを運転中に脳梗塞を起こし、一気に体の障害が発生しました。その結果、車を徐行し停まる寸前で軽い接触事故を起こしてしまいました。事故は極めて軽微でしたが、脳梗塞は酷くて救急車のお世話になりました。事故直後は、脳がダメージを受けた結果、車のドアやパワーウインドーをどうやって開けるかがどうしても分からず、右目の半分の視野が無く右半身が痺れていましたので、脳梗塞で左脳にかなりのダメージを受けたのは自分で分かりました。そこで周囲の方に、脳梗塞だということを伝えて救急車を呼んで頂きました。
救急搬送された某有名大手病院の当直医師に診てもらったところ、「CTで確認したが、脳梗塞の症状は無い」と言われたので、「脳梗塞に間違いない。脳梗塞はMRIでないと見えないので、至急MRIと血液の抗凝固剤の点滴を始めてほしい」と主張しました。若い当直の医師の方は意地になって「貴方は医者か?医師免許はあるのか?」等と抵抗していましたが、結局上司に相談して不承不承MRIを撮って見た結果、左李半分の脳に大きく広がった大きな脳梗塞が見つかり、即時点滴を受けることができました。聞くところによると、MRIの起動と準備にはかなり時間がかかるので、通常の病院でも早くても翌朝になるという事でしたので、それでは3時間ルールと言われ発生から3時間以内に点滴治療を行うか否かが治療効果と後遺症を決定づける脳梗塞の患者の大半は、それには間に合わないことになります。
一晩ICUで治療を受けた翌日、より個人的に関係が深い別の病院に救急搬送を頼み再入院しましたが、処置が早かったおかげと、点滴を始めた時点から自分でリハビリを始めたこともあり、医師も驚くほどの回復スピードのようでした。当初は脳と視覚のかなり酷い障害がありましたが、倒れ点滴を始めた2時間後から始め、入院中やり続けたスマートフォンを使った“マイリハビリ”の効果もあり、かなり回復したのと、他の機能が壊れた機能を代替し始めていたので、かなり回復の兆しがありました。倒れた直後は、1行のメールを書くのにキー操作が思い出せなかったり、1行で1時間程度かかっていたりしたのですが、最初の点滴を受け始めた時から、常にスマートフォンでのメールの作成を必死にやり続けた結果、現在は、ミスタッチはまだ多く決して早くはありませんが、かなり改善して来ました。
私は早期治療と、脳梗塞の部位の関係とマイリハビリのおかげでほとんど手足等の外から見える障害は残りませんでしたので、病院では特段のリハビリもありませんでした。ですからその間は、スマートフォンやPCを使ったマイリハビリを徹底的に行っていました。実はこの文章も、3日後にPCの訓練のために書き下し始めたものを、退院後完成させたものです。ただ初期の点滴以外は病院での特段の治療もありませんでしたし、早くリハビリを兼ねた日常行動を開始した方が良いと考え、入院後10日でかなり強引に早期退院をして即仕事を始めました。
まだ自分の身体の状態はフルには分かりませんが、今の段階で分かってきていることは
l 脳梗塞は左後頭葉から左前頭葉にかけて広くダメージを起こし、そのMRIの影はかなり薄くはなりましたが、まだかなり広範囲に残っています。ただその部位はほとんど運動能力には影響がなく、しびれていた右腕も含めて運動機能についてはほぼ回復し、今のところほとんど影響がありません。おそらく、他の方がみると、私に障害があることは気がつかれないと思います。
l 問題は、記憶、思考、判断、スピードという脳の問題と、右目に起因した問題です。
Ø 脳の問題と右目の問題はかなり複合した問題のように感じていますが、当初私が知覚していた最も深刻な複合問題は、右目が機能的には見えているにもかからわらず、脳を通すと見えていない部分があるという現象です。調べたところでは、「半側空間無視」乃至は「同名半盲」という症状になったようです。上手く説明することは難しいのですが、私が経験していた現象の例としては、効き目が右目なのですが、右目のすぐ前にあり探しているものが見えず、顔を動かしたり、見方を変えたりすると見えます(これはしばしば起こり、時には目の前の人が見えないことも起こりました。)
Ø これは事故の時に、右目半分が見えておらずそれで右の車に接触したのですが、その時には一旦右目の半分が失明したのだと思います。その視力自体はほぼ回復し、目の検査をして一生懸命見るとその時は見えます。ただ、日常では見えているはずの物が見えていないことがあったので、おそらく脳梗塞後視力がほぼ戻った時に、脳と視覚機能の統合が上手くいかなくなったのでしょう。
Ø この障害の影響はかなり改善しましたが、まだ影響はあり、例えば字を読むと字がだぶって見えたり、”見えているような、見えないような”現象がおこったり、位置がずれて見えたりします。その結果、字や文章を読んで内容を理解するのに何度も読み直さないと(目をスキャンしないと)理解できないので、かなり時間がかかります。新聞を読み理解する力が落ちて、時間がかかります。ただ、その情報を耳から聞くと直ぐに理解できますので、それは単純な理解力の問題ではないと思います。
Ø それがスマートフォンでメールを打つのに打ち間違いやキーの位置間違いが起き、恐ろしく時間がかかる理由の一つです。逆にこのメールを打っているPCは、ブラインドタッチで売っている時はスマートフォンより早いですが、一度止まってしまうと、操作の立て直しを考えるのに時間がかかります。
Ø この辺の視覚は、その後かなり改善してきていますが、本質的にはまだ残っていると思っています。
Ø 耳から聞いた理解力や考える力はあまり落ちていないような気がしますが、目を介した判断のスピード、理解力、記憶力は落ちている気がします。これが目の影響なのか脳単独の問題なのかの原因分析がまだできていません。
Ø 目で見たことと、それを理解して行動することに少しタイムラグが出ますので、少しスローで、瞬間的に一瞬迷ったり、考えたりするタイムラグはありますが、まあ倒れた直後のことを考えれば良し、とせざるを得ないと考えています。
l 退院当初は、右目に視覚障害が発生し、右の角に肩をぶつける等がおきましたので、そのリスクを避けるために、右手にステッキを持って歩くようにしていましたが、今はそれも無しで済むようになりました。
l 名前や、物忘れ、漢字の書き取り等の能力がかなり下がり、細かく指を使ったり字を書いたりするのが下手になりましたが、考えてみるとそれ等は元々私が弱ったことがさらに弱くなったものですので、かえって良い言い訳ができたと開き直っています。
l 脳梗塞後はかなり疲れやすくなっていますが、一説によれば梗塞を起こしている箇所に脳が血液を通そうとする指令を出し続けるのでかなり披露するようですが、この辺は事務所での仕事を早めに切り上げて、自宅で継続する等の工夫をしています。
私はこの問題をあまり深刻にはとらえていませんが、これが完全に治ると楽観視もしていません。読み取る能力とスピードを深刻に考えればかなりのダメージなことは事実で、同じやり方で同じスピードではできませんが、何とかやる方法を工夫しないといけないと思っています。ただ、それに発声障害がありますので、かなりの努力が必要な気がしますので、仕事の仕方や内容は軌道修正しています。私は病気の百貨店を自認しているほどかなり難しい病気を経験していますので、老化とともに色々なハンディキャップの自覚が出てきますが、その度に色々調べ、考えたり創意工夫しながら、毎日仕事をしています・
以上が私の体験ですが、その体験やこれまでの様々な病気の体験を通じて感じたのは、本当の自分の体の状態と何が必要なのかを理解できるのは自分であり、それを医師に詳細にかつタイムリーに理解していただくことはできないということです。またリハビリも含めて、脳関係の検査も治療方法も、当然標準パターンですので、自分にこれは必要で、これは必要がないと感じることもありますし、本当に必要な検査やリハビリは自分で考えてスピィ―ディーにやらないと病院任せは危険なことがあると実感しました。
長くなり大変恐縮ですが、事程左様に、日本人は既得権と島国で守られ、質が高い社会構造の中で育ってきているので、つい既存のものを過信して依存してしまう癖があると感じています。しかしながら、医学もそうですが、今の科学や社会の仕組みが解明できていないことの方が多い今の世の中で、与えられたことをギブンとして生きていく癖がつくこと、つまり意識し考えること無しに生きていくことは怖いことだと感じています。
同時に、いろいろ言っても今の恵まれた社会や仕事の環境の中で既得権で生きていながら、仕事で新しいことにチャレンジし、進化と日々の付加価値創出を実践することはかなり難しいのではないかとも懸念しています。歴史的に言えば、日本が既得権と与えられるものである程度の豊かな生活を営めるようになったのは。ここ40年位だけですので、今の状況が異常で、自分で自分の生き方を選択し、創意工夫することが日本をここまでの国にしたということを思い出すことが必要ではないでしょうか?
最後に、脳梗塞と高齢化が進んだ結果、明らかに良くなったと自覚していることがありますので、そのお話で締めくくりましょう。それは、物事を深く考え、本質を理解し、適切な判断をする能力がかなり進化しているという実感です。この理由として自分が考えていることをお話しすると長くなりますので、これはまた別の時に詳述しますが、私から見て自分のその能力が高まった理由は、脳梗塞や老化の様々なハンディキャップの結果、余計な情報やノイズが入りにくくなり、言葉も出にくいので少ない言葉で重要なことしか言えなくなったことと、その分メールや文章で考えた上でロジカルに自分の考えをまとめるしかなくなったこと、エネルギーや処理能力が落ちているので、重要なことにフォーカスせざるを得なくなったことだと思います。そしてそれが自分の日々の進化と、毎日毎日、新しい学びや付加価値を創出しているという実感が持て、それが楽しくなっていることだと思います。
そういう実感と、glass is half fullという前向きの発想が持てなければ、おそらく今頃はとっくに引退して、病気療養していただろうと思います。
同じ日だったか、翌日だったかは定かではありませんが、私は上記の見出しを見て本当に驚きました。なぜかと言えばこんな明らかな判断ミスが政府から発表され、それを一流のマスコミがポジティブなこととして一面で報道するということに愕然としたからでした。
無論この二つの判断ミスの理由は違いますので個別の説明が必要ですが共通点は何かと言えば、こういう判断を政府が、優先順位が高い正しいこととして行い、マスコミがそれを鵜吞みにしたことでした。
まずIR の問題は、こういう判断ミスが起こる原因が、政治家にとって、そして政府の運営にとって最も重要なPrincipleが忘れられ、儲け優先で承認されたことだったと思います。
日本におけるIRの解禁はかなり長い間議論されてきていますが、そのリスクとしてのギャンブル依存症のリスクは少し検討されましたが、結局賛成派に押し切られました。一方、この問題のもう一つの問題である、ギャンブルそのものが典型的にほとんどの国民が大損をして、運営側とごく少数の偶然確率の低い賭けに勝った勝者だけが一過性で儲かるという事業だという本質が忘れられているからです。これはギャンブルというものの性格上、競馬であろうと競輪であろうと,競艇であろうと、宝くじであろうと、カジノであろうとこの事実は変わりません。確率論からしますと、最終的にギャンブルは胴元であり興行主催者である団体とその管轄官庁だけが儲かり、国民全体は損をすることが生業です。しかも依存症になりやすい娯楽です。賭博から学ぶものは何もありませんので、ますます健全な国民にとってマイナス以外の何物でもありません。
こういう公営ギャンブルを管轄官庁がやっており、利益を享受していることを継続できていること自体が、まったく政治としてのPrincipleに反する行為ですが、それを知りながら更にそれを行政がこぞって推進するという判断自体が誤った判断なことは明らかです。そういうと、日本への観光客の誘致だとか、観光収入だとかいう推進派の主張はありますが、世界的に見ても、公営ギャンブルがあるから大きく繫栄している都市はごく限られた数しかなく、国家、国民にとってはそれが無くても観光への影響はそこまで高くないのが現実です、逆に言えばそんなものは無くても、もっときちんとした国家戦略があれば観光立国は推進可能です。
IRに賛成している人たちの議論は、色々ありますし、それがすべて間違っているわけではありませんが、それ以上に何よりも優先すべき、国民の健康、安全、生活を守るという極めて需要なPrincipleに比べれば、積極推進論の各ポイントはマージナルなものばかりです。そういう事実を知りながら、今回の発表をポジティブに一面で報道しているマスコミの判断力も地に落ちていることを露呈しています。
これに比べると、同様に一面を飾った「公務員の週休三日制」という制度自体が間違っているとは言えません。恐らく政府の考え方は、国民の週休三日制に先駆けて洗礼を示すという意図だと思いますし、もしかすると唯一ブラックで労基法のプリンシプルに違反して政治家の小間使いをさせられている一部の官僚へのメッセージの目的もあるかもしれませんが、私の理解が正しければ、国会議員に理不尽に使われている官僚と、同調主義と形式主義の教育関係官僚を除いては、ほとんどが国民以上に劣悪でブラックな仕事の環境等でやっているという理解はしていないと思います。
更に言えば、政府の期待はこうした処遇の改善が、不人気になっている官僚職への人気を取り戻すきっかけになるという考えのあるようですが、これは根本的に判断が間違っている気がしています。そもそも、かつてのバブル以前に比べて、最近、官僚が人気がないのは、官僚の仕事の実態や内容が、天下国家の将来に貢献する仕事でもなく、ここ30年近くの政治家と官僚のパワーバランスが政治家主体に変わった結果、知的にも能力的にも、そして使命感やPrincipleから見ても自分たちより劣る政治家に指示され使われる仕事や、問題が山積みにあり、仕事の本質とやるべき進化と付加価値に貢献することに自由度が無く、型にはまった慣例主義の行政官に嫌気がさしているからだと思います。こういう状態を放置したままで週休三日制を導入しても、本来求めたい人材であるはずの志しが高く、社会の進化や付加価値創出への意欲と能力が高い人材の獲得にはつながらないと思います。
更に今の官僚の労働環境が劣悪だと感じているのは、日々ブラックに使われている潜在能力がある官僚を身近で見ている霞が関周辺だけであり、日本の国民から見ると、なんでいつも楽をして杓子定規な官庁が週休三日制で先行するのかは、理解できないのではないでしょうか?
最近の日本の政府や大手企業の対応を見ていると、一見攻めの趣旨で語られていることの多くが、実は”守り“の発想で考えられている気がします。新しい資本主義で述べられた、半導体、蓄電池、データーセンター、バイオ、リスキリングという具体的なテーマですら、後追いに近いイメージですが、より新しい分野である、DX、[YT1] 、宇宙等においても結局は先行するリーダーの後追い的、即ち守りの為の方針という印象は否めません。
それ等についてのスコミの論評も、スローガンや、他の先行した世界からの二番煎じのような方向の話や、逆に極めて短期志向で戦術にもなりえない刹那的な話ばかりの感がある気がしています。そういう話を今の若手が聞いても、それによってやる気になったり、期待を持って自己研鑽をやろうという気になったりするような話はほとんどないという印象です。
戦後から高度成長期にかけて、色々な面できわめて潜在能力が高く、高い志を持って日々研鑽した結果、国も、経済も、事業も、そして個人も高い実績を示してきたはずの日本人自体も、他の”良くも悪しくも”覇気と様々なチャンスに挑戦する意欲が高いグローバルなチャレンジャー達から見ると、その挑戦しようとするテーマや、意欲・意志が強く感じらないのではないでしょうか?
そういう中で、先だって日本企業の変革についてのある財界の集まりの中で、「日本の大企業の事業の取捨選択、特にノンコア事業に関するポートフォリオマネジメントが積極的に行なわれていない」と言う話と、「日本人以外の優れたグローバルな経営人材の登用が遅れている」と言う二つの議論が行われました。そういう中で、その原因と対策のデスカッションが行われましたが、その最後の方で私がコメントしたことが、表題に掲げた日本と言う国、日本人の意志の喪失そのものに関係しますので、以下にお話ししておきたいと思います。
ポートフォリオ管理の遅れと“意志”
ノンコア事業のポートフォリオ管理は、企業価値を上げたり、株主への配当を増やす方法としても議論されていますが、そうした金融的なもの以外にも重要な意味があります。そもそも企業がポートフォリオ管理をするということは、限られた人金物の資源配分の中で、より有望で投資すべき事業に資源を優先配分する為に、そうでない事業を売却したり整理することが基本です。つまり「限られた資源」と言う状況と「コアとなる事業や積極的に取り組みたい課題が目白押しにある」と言う状況下で起きる議論です。
しかしながら今の多くの日本企業は、どちらかと言えば人金物の経営資源はかなり余剰状態で、企業の留保金で配当したり、自社株買いを行ったり社員の給与をアップせよと言う議論が出るぐらいの状況です。
一方、これからどうしても強く取り組みたい課題や具体的に是非投資をしたい取組があるかと言うと、多くの大企業ではそこまでの独自性があり強い志で取り組みたいテーマは見えていないのが実態ではないでしょうか?事実多くの上場会社の中長期戦略の方向やキーワードは、政府のスローガンと類似した言葉が中心で、具体的で強い志が感じられるものはあまり見られないように感じます。
社員はと言うと、様々な会社で公募制や提案制度、セカンドジョブや出向のプログラムがありますが、一部の例外はあったとしても、そこまで多くの挑戦的な志を感じられる会社としてのイニシアティブや希望にあふれているという状況ではない気がしています。かつての高度成長時代、つまり日本の大手企業が、生産、技術、営業等、大半が現場型のラインで占められてきた状況では、TQC等の活動が活発であり、営業においても担当者や課の単位が自律的に様々な機会に挑戦してきた時代でした。それに比して、80年代後半からのホワイトカラー・スタッフ主流の日本の組織、サラリーマン化し、日々ルーティンワークをこなす形の組織風土が、90年代以降のバブル崩壊の守りの経営と相まって、ホワイトカラーが高い志で自らの挑戦課題を考え、その結果日々の自己や自社の付加価値や進化に貢献するという志が余り見られない気がしています。その中で日本の組織自体も、挑戦への高い志を持つネタが不足するという悪循環を生んでいるような気がしています。伝統的・保守的で、同調傾向が強い教育や評価制度もそこに輪をかけているのは言うまでもありません。
大企業からの転職はかなり増えてきており、中には事業を創業する若手も出てきていますが、数の上では、自分独自の想いが強く、具体的な興味やテーマを持ってチャレンジするというよりは、どちらかと言うと現在の組織に対する不満や不安と、その結果のネガティブセレクションで別のキャリアを選択するケースがまだ多い気がしています。
そういう様々な要素を考えますと、日本の大企業が積極的でダイナミックなポートフォリオマネジメントを行うためには、コア事業へのダイナミックな取り組み、乃至は今後取り組みたいと強く志す具体的な事業構想や課題が生まれてくることが必要条件になり、その結果限られた資源を有効活用するようなダイナミックなポートフォリオマネジメントが行われるというサイクルが必要だと考えています。
グローバルタレントの経営者への登用の加速と“意志”
先に述べた会議の中で、日本企業の変革の要件として、一部の大企業でも行われ始めたように、「企業のトップにもっとグローバルな人材を登用すべきではないか」と言う話がありました。その議論の中では総論においては賛成の雰囲気でしたが、一方では、「日本人の経営者はかなり優秀だが上手く活用されていない」と言う議論も出ていました。その中で私が申しあげたことは、「スキルや潜在能力の面では日本の経営者が必ずしも劣っているわけではないと思うが、その企業を“どうやって大きく進化させ大きな付加価値を上げる企業にするか?”と言う高く具体的な志と情熱と言う要素から見ると、多くの日本人のトップマネジメント候補は、優れたグローバルタレントに比して劣っている。従ってポートフォリオマネジメントの所で課題と考えている、日本の国、企業、日本人自身が強く高い、かつ具体的なチャレンジ課題や志を持てるような取り組みを行っていくことは、かねてより日本が弱いと言われ続けてきた、政財界のリーダーの育成においても必須条件だと思う」と言うことでした。
守りの日本、挑戦者の日本
この辺は一見難しいテーマのようですが、日本の歴史を見て行きますと、これまで小さな島国であった日本が世界の中で存在感を得て成功してきたのは、日本や日本人が、自らが持つハンディキャップの克服も含めて果敢に挑戦してきた結果だということは歴史が示しています。冷静な目で見ますと、日本と言う国も日本人と言う人種も、自らが守って繁栄していけるほどの国土や資源、人口、他国が挑戦不能な資産を持っているわけではありません。従って、昨今のような“守りの日本”ではなく、再び“優れた倫理観や価値観に基づいた挑戦者の日本”になった時に初めてグローバルなリーダーシップが取れる可能性があるということを十分認識しておく必要があると思います。
一方、 “日本以外の国が、個人主義や個人の利害偏重型への弊害を起こさずに、一朝一夕に優れた倫理感や価値観を国民全体に波及させていくことは困難だ”ということは事実だと思います。従ってその間に日本が、“優れた倫理観や価値観に基づいた挑戦者の日本”を復活することができれば、日本にとっての可能性は非常に高いと感じています。
もう一つの日本にとっての朗報は、様々な技術や事業モデルの急速な進化の結果、新たな進化を可能にし、加速することへの様々なハードルが低くなっているという事実です。かつては大手企業で、巨大な資金を持っていないとできなかったことが、一個人でも、できたばかりのスタートアップでもできる状況になりつつあります。逆に言えば大企業のスケールや大組織、巨大な固定費が進化の妨げになる dis-economies of scaleの方が顕在化しつつあります。その辺の危機感を一番感じているのが、新興勢力であっという間にグローバル企業の頂点にたったGAFAM等ですが、日本においても大手やエスタブリッシュメントでなくてもそれをリードできる環境をもっと整備して行けば、その志が実現することを体験して更に挑戦するという前向きのサイクルに国も、企業も、個人も乗っていくことは十分可能ではないかと考えています。
本稿は、あるコンサルティング会社の依頼で作成したもので、このテーマは全く勉強したこともない分野です。又、私はあくまでも“ミクロ”の“企業側”の視点で見ていますので、正しい答えになるかどうか不安でしたが、私見のみお伝えします。
状況認識と「グローバルサウス」への姿勢
先進国内でも、国自体の価値観やプリンシプルが揺れており、今後の力関係も読みにくい状況である昨今、グローバルサウス自体への長期戦略を設計するには変動要因があり過ぎる気がしています。そういう状況ではありますが、私自身は、「その権威がどんどん低下しているとは言え世界の盟主と自認する米国」、「金と巨大な市場と経済力、弱みに付け込んだ一方的現状の変更をバックとし、反米という口実で途上国を引き込んでいく中国」の二極対立にバランスするもう一つの三極が必要で、それを唯一できるのはインドだと考えています。
ロシアはもともと、経済力もその考え方や言動も先進国とは言えない状況であり、国連の常任理事国の指定席と核ベースの武力による恐喝によりかろうじて地位を保っており、今回のウクライナ侵攻とそれに端を発した力の衰退の現実で、砂上の楼閣で独自でグローバルリーダーシップをとることは今後も不可能だと思います。
そういう中で、中国、ロシアを除く先進国が賢くまとまることができれば、(1)核の脅威以上に一瞬の破壊力、防衛力を発揮する武力や武力行使に対する防衛力を持つテクノロジーでまとまること(2)無力化し形骸化している国連を解体するか、国連に変わるグローバル統治の仕組みを作り、そこに途上国を引き込み、実質的に国連を無力化すること(おそらくロシアと中国は参加を拒否すると思いますが)(3)世界を 米、中国、インドの三極とし、それを土星の輪のように取り巻きサポートし、インフルエンスする、日、ECの主要国、イギリスという、リーダーシップグループを作り、その下にアジアや他の先進国に近い国家、様々な経済連合機構に徐々に参加する後進国というような構図になると想定しています。
日本自身が日本が三極になれないと思う理由は色々あると思いますが、私は、日本は単なる経済力や武力、人口等で3極の一つとして世界をリードことはできないとしても、後でコメントします「まったく違う軸で実質的に世界に大きな影響力を持つ存在」になれば良いと考えています。
上記の想定は今回のご質問のテーマから外れますのでここで止めますが、いずれにせよ世界の極をバランスするためには、二極から三極に移行する必要があり、唯一その第三の極になる可能性があるのはインドだと考えています。
グルーバルサウスがこれからどうなるのか、一つにまとまるのか、どの程度のスピードで本当の意味での影響力を持てるようになるのかは未知数ですが、おそらくそれに過大な期待をすることは難しいし、現在のインドがその核になることは無理だと思います。
ただ、日本が、より中・長期的ビジョンで考えますと、インドとかなり強固な関係を築くためには、良くも悪しくもまだ国としてのスタンスや色がそこまで染まっていない国々が参加するグローバルサウスの構築やそれに必要なサポート、そしてより大事な日本として行うべき役割を果たすことを始めるためには一つの有効手段だと考えます。
インドが三極目のリーダーになる(べき)理由
先にも述べましたが、私はこの分野の専門家ではありませんし、勉強もしていませんのでここでのコメントはあくまでも個人的体験と私見に基づいてであることを、最初にお断りしておきます。
l これからのグローバルリーダーシップの一角を占めるのは、人口規模、経済規模、様々な国家、経済、企業経営の要となる要素についての影響力、グローバルリーダーシップの実績と影響力、国家として、グローバルの一員としての正しい価値観とプリンシプルの保有 が重要だと思います。米国は人口を除いてその資格をもっていましたが、五つ目のグローバルリーダーシップの実績と影響の低下と、米国自体のガバナンスの不安定化と分断化、最後の世界のリーダーとしての価値観とプリンシプルの混乱により、その面での米国の影響力はかなり低下してきています。中国とインドは人口と経済規模ではその資格はでてきていますが、その他は今後の課題です。
l その中で、まず中国が人口とGDP規模を除くとグローバルリーダーとして失格なのは、「中華思想」国民全体の政府や他者を信頼せず、自己、自分の家族の利害を追求する価値観があると思います。これが共産党と自国の利害に合わないルールを無視して自国の利害を最大化するという現政権の姿勢と、それが結果的には経済発展や富裕層や都市部の経済発展にもつながった結果、国民の判断力や客観性のブレーキが効きにくい状況にあり、当面それは変わらないと想定しています。14億人の国民の倫理観や潜在能力についてコメントできるほどの知見はありませんが、私が見て接してきた印象からしますと、確かに優れた人材はいますが、倫理観やコンセプチュアルに考える能力、民衆の潜在的知的能力は必ずしも高くない気がしています。そして、その経済力を利用して、親中国勢の国を買収していることを考えますと、リーダー国として世界をリードする資格はないと思います。
l これに対して私が接し、横から観察した範囲でのインドは、はるかに世界のリーダーシップの一角を担える可能性があると考えています。
Ø 中国は14億人で華僑の数は5000万人に対して、インド人は12億人で3000万人がインドの外で活躍しています。従って早晩両国の人口も、グローバルな人材も数においては近くなります。ただ、そうしたグローバルに活躍している人材を見ると、これも自分の限られた接触の範囲でのバイアスがかかった見方ですが、長年英国の影響を受けたインド人の方がはるかに英語力、グローバルな視点、グローバルな地域や人材への溶け込み方が優れているように見えます。能力的には、個人的経験でお話しするのを許していただければ、色々なグローバルエリートの中で、トップ10の人材をあげると、その中でインド人が3人入ります。そういう優れたインド人を見ていますと、倫理観・価値観、社会・世界観といった一朝一夕には変えられず、今後の世界をリードする国民には重要な価値観が良い時期の日本に近く、科学的・論理的思考力としてコンセプチュアルでコンテクストが優れた発想は、総じてインド人が優れていたと思います。
Ø 科学技術分野においても、インド工科大学(IIT)等のエリートは、ものすごい受験競争の中から厳選された英語にも堪能な人材がどんどん輩出されていますし、グローバルの大手企業でインド人がリードしている組織はかなりあります。
なぜ日本にとってグローバルサウスへの積極的関与が必要なのか?
「あらさがしが得意な評論家」的な日本人のインテリから見たグローバルサウスの印象は、「グローバルサウスが影響力を持てるようになるのは遠い未来」「上手くまとまるはずがない」「インドはまだ国力も、まとめられる力もない」「そう急ぐことはない」というシニカルなコメントになり、「もう少し待つ」「様子見」「適度に付き合う」という意見になるのではないかという気がします。現状で見ると、これまでの日本のスタンスであれば「受け身で少し付き合う」という意見になるような気がします。
ただ私自身は、例え結果は思いどおりにはならなくても、グローバルサウスを推進するインドと一緒に積極的に関与すべきだと思います。私の国際情勢についての知見はそこまで高くないので正誤のほどは分かりませんが、私の仮説は
l インドはグローバルなリーダーの三極を担うべき存在で、インドと強い信頼関係を作ることは日本にとって最重要に近い国際問題だと思います。
l 一方、主要各国は、インドの力についても、グローバルサウスについてもまだかなりスケプティカルだと思います。
l その意味ではインドはまだ孤軍奮闘の状態だと思います。
l 今のグローバルサウスの状況を見ますと、何らかの支援を行う時のコストはそこまで膨大でなく、日本がそこまで巨額のコストをかけなくても、ある程度のインパクトは出せると想定しています。
l 後に述べますが、日本が徐々に失いつつあるとはいえ、日本はグローバルサウスに貢献できる独自の分野がたくさんあります。しかもそれは、賢くプランし、現代のグローバルシチズンに合わせたやり方やコミュニケーションに調整すれば、単なる援助ではなく一定期間後にリターンを回収でき、世界への永続的影響力につながる可能性があると思います。
l 途上国の囲い込みに熱心な中国も色々トライしていますが、ごく一部を除いてまだそこまでの強固な関係ではないと考えていますし、中国に対する警戒感はかなり高まっていると思います。
l グローバルサウス全体がまとまらなくても、この活動をインドと日本が主導していけば(と言っても日本はメンバーにはなりえないと思われますが)、日本は途上国とのある程度の関係は築けると思いますし、後に述べる支援のやり方であれば、日本と途上国の“国民との”関係はかなり永続的な信頼関係になる可能性はあると思われます。
l こういう形の日本の支援は、中国や欧米の拝金主義、自己利益の追求型のやり方と違う形で、インドとの強固な信頼関係を構築できる可能性にもつながると思います。
l 各国がインドやグローバルサウス、後進途上国にスケプティカルな今こそ、日本が積極的に関与すべきモメンタムにあると思います。
日本はグローバルに何を貢献すべきか?
A) 資源のない日本の、戦後から70年代までの日本の発展は長い歴史の中で日本人に染みついていた高い倫理観、向上心と勤勉な国民性、教育への投資と、海外から積極的に学び、創意工夫して、正、官、民をあげての付加価値創造力の向上と経済成長を達成した結果だったと思います。更に60年代後半から80年代中頃までのTQCの活動は、インテリジェントブルーカラーを育て、それが経済発展にもつながるという正の循環を生んでいました。当時の日本人は結果的には終身雇用ではありましたが、戦後からこの時期の日本の労働者は、官民ともに必至に努力し、様々な創意工夫をしながら日々緊張感をもって生きてきた結果、経済成長、企業成長と好業績、その結果としての給与レベルの向上が達成された時期だと思います。
B) 一方、その後の日本は、欧米が低迷し、韓国や中国がまだ途上国の時期にバブルを迎え、Japan as number oneともてはやされた時期で、それと時を同じくして大卒の大量採用競争の結果ホワイトカラーが日本の人口のマジョリティーを占めたころから凋落は始まって今日に至っています。終身雇用という制度は無いと言いながら、実際は60歳までは雇用を保証され、低成長の中で毎日同じルーティンワークをこなしながら日々を過ごす仕事の事態と、本来の知的労働者であるはずのホワイトカラーが、日々頭を使い創意工夫して付加価値を創造するということを忘れた、いわゆる「ホワイトカラーのブルカラー化」が続いたのが90年代から今日に至る状況です。この時期の日本は、日々頭を使って創意工夫し、付加価値を創出し続けることで、報酬も増加するということと反対の、努力し頭を使わなくても色々なものが与えられ、過保護に慣れ、過去の遺産を食いつぶして平穏な日々を過ごし、一時期の海外から積極的に学ぶ姿勢と興味も低下した結果、島国型の発想に戻るという、ネガティブサイクルに陥ってきた時代だったと思います。今年度の給与アップの動きも、さらなる甘さを助長し与えられることに安住する価値観を一層助長するリスクもあります。
C) 今後の日本は、過去の良い遺伝子が消滅する前に、そういうネガティブサイクルから、「日々の創意工夫と進化による付加価値の創出と、その結果の国、企業、個人の経済力と豊かさが増加する」というサイクルに乗せるサイクルにギアーを変えないとなりません。そして、inventionよりinnovationという意識で積極的に先端技術を学び、それをinnovativeな事業やサービスモデルで実践し、継続的に創意工夫して質と顧客満足度を向上する。そしてネットやSNS、ズーム、アバター等の最新のコミュニケーション技術と手段を活用して、新世代の人間が理解し興味を持つ方法で、高い向上心と職業倫理を持った付加価値創出型の人材を育成するモデルを確立する必要があります。
実は日本がグローバルサウスに貢献出来、世界への永続的な影響力を持てるベースとなることは、戦後からのA)のフェーズにおける成功、 B)のフェーズの失敗(すなわち反面教師)、今後取り組み始めるC)の取組を、グローバルサウスに共有化し、教え、A)とC)の企業活動を日本企業とともにグローバルサウスで事業として育てる。そこからの産業を活用して日本企業も進化して付加価値を創出し続けるということにより、win-winで経済合理性があるサポートサイクルを作り上げることだと思います。
その最も重要なベースとなる、今日の世界で理解できる形の、社会的倫理、職業倫理、向上心、正しい正誤の判断、noblesse oblige、日々の進化、日々の創意工夫、日々の付加価値創出、結果としての社会と個人の繫栄等の通奏低音を、新しい時代にあったコミュニケーションの表現と手段で波及するための、官民を挙げた取り組みがグローバルサウスに日本が行うべき貢献だと思います。
そして、上手く設計するとこうしたグローバルサウスの支援は従来の補助金や支援ではなく、民間が積極的に、むしろリードして参加し、リターンが取れる形のプロセスを設計できるのではないかと考えています。
日本はC)については日本自身が自らを軌道修正し取り組まなければならないことですが、それとグローバルサウスにシェアーすることを同時に行うことは、日本自身の進化も促進する可能性があると考えています。
この時の重要な状況認識として、日本では40年ずつぐらいのサイクルでA),B),C)が順番に発生しましたが、今はスマフォの普及とその結果、情報格差が縮小したことの結果、A),B),C)のスピードもかなり速くなるとともに、それらが同時に発生する可能性がありますので、その辺の認識に基づくサポートが必要だということだと思います。
本稿は、あるコンサルティング会社からの質問への回答で作成したものです。
l Inventionからinnovationへ:
Ø 現在の科学技術の議論は、ともすれば新しい理論や基礎研究、学会論文や特許の数や、各国やグローバル企業がこぞって研究競争をしている“先端基礎技術分野”に大きな資源と人材を投入して理論的発明(invention)を行い、ノーベル賞をとるということが暗黙の市場の価値になっている気がします。しかしながら、歴史的に見ても、特に最近の傾向を見ますと、多くの付加価値と経済効果を生み、収益を上げているのは基礎研究よりは、そういう様々な先端技術やシーズにいち早く着目して、それを実際のモデルやサービス、システム、製品として事業化するという、いわゆるinnovationであるということが理解されていません。
Ø 歴史的に見ても、「最初に製品や技術を事業化した企業は最終的にナンバーワンになれない」ということが言われていますが、それは「最初に基礎技術を開発し何とか事業化した企業が試行錯誤している間に、その技術の一番有効な使い方や、事業やサービスモデル、顧客やユーザーのニーズや視点に基づいてどう活用するかという発想で後発参入した企業が、最終的に勝つ」ということが様々な業界で実証されています。
Ø さらに悪いことに、今の先端基礎技術は過去に比して極めて混雑事業で、しかも短命です。その理由は大国、大企業間の競争に加えて、開発の手法や活用できる情報や仕組み、ファイナンシングの多様性が参入のハードルを下げているので、ベンチャーや個人もかなり容易に参入できるようになってきたからです。
Ø 恐らく、何かの基礎技術が創出した生涯利益(Life time profit やprofit poolと呼ばれていますが)に占める基礎技術の開発に要する資源と、特許料や、当該企業がその技術が生んだ利益に比して、その技術を利用して応用開発したり、実際に活用したりした企業の生涯利益の方が桁違いに高いことは明らかです。こうしたアプローチはinnovationと呼ばれていますが、私は個人的にはこれからの日本は、最先端の基礎技術や応用技術をいち早く入手し、それを活用したinnovationを率先して進める国、企業になっていくべきではないかと考えています。最近の日経にマイクロソフトとアマゾン等の比較が出ていましたが、基本ソフトをコアとしてそれにフォーカスしたマイクロソフトと、自分自身は基礎技術開発をせず、応用開発と事業モデルのイノベーションを広い分野で実践してきたアマゾンがその良い例だと思います。自動車においても、超新興勢力のテスラーの企業価値がトヨタを超えてしまったのは、テスラーが基礎技術を発明したのではなく、従来の自動車メーカーの固定概念を悉く排除して、より自由に他社のシステムやディバイスを活用するとともに、メカとソフトを分離したことで、様々なモデルのイノベーションをスピーディーに行ったからです。では、その時に日本のグローバル企業にとって重要な留意点を挙げてみたいと思います。
l 日本のグローバル企業にとって重要な3つの留意点
Ø まず第一に、、自分のユニバースである、事業や市場、顧客をより“高い視点”と“広い視点”で定義しなおし、そのユニバースの視点で、異業種を含む最先端の技術や事業モデル、サービスモデルの情報を積極的に探索し、それをそのユニバースでどう活用できるかの発想でスピーディーに事業化していくことだと思います。
Ø 第二に、、本当の意味でのグローバルな視点でものを考え情報を収集することです。今のOECDの経済力の中だけで見ても、日本の経済規模は5%に過ぎません。つまりグローバルに市場開拓をしている企業は少なくとも95%以上の売り上げは日本以外からになるはずです。もう一つ重要なことは、多くの市場で、90年初期ぐらいまでの日本の消費者やユーザーは、世界でも最も厳しい顧客・ユーザーだったと思いますが、今やほとんどの業界で、その地位が低下しています。従って、日本の消費者やユーザーを見ていたのでは、事業のイノベーションはできないということを理解することだと思います。
Ø もう一つの重要な認識は、これからグローバルなイノベーションは、先端技術やエレクトロニクスだけがリードするのではなく従来のメカやメカトロニクスとのハイブリッド、ロボットや自動化と、人間のハイブリッドでイノベーションが起こるという認識です。この視点で今の日本を見ると、80年代ごろに日本が世界をリードしてきた技術や産業、例えば重厚長大の部品や技術、メカ部品、ボイラーやタンク、油圧機器等はこの40年ぐらいの間にかなり空洞化し、中国等に移管されてきてしまっています。米国でも似たような現象があります。そうした従来のコア技術や生産は中国が独占しているものが多く、企業数でも規模でも中国がリードしています。その中で、アメリカではエマーソンがそういう伝統的メカトロ事業を買収しながら好業績をあげてきていましたし、日本でも日本電産はそういう戦略で伸びてきましたが、米国、日本でのそういう伝統的機器を活用する企業の衰退とともに、競争力が低下してきているのが現実だと思います。そういう中で、ドイツのボッシュ社は殆どの先進国でなくなってきた油圧機器の事業を買収して先進国でのドミナントなシェアを持っていますが、その中心顧客である先進国ユーザーがこうした部品を使ったイノベーションに消極的な結果、せっかく独占体制を作ったボッシュでも、そういう伝統部品事業が低迷しているのが実態です。
l ご存じのように、イギリスは80年代後半から、国家政策として産業経済から金融経済への大胆な取捨選択を行いました。一時期それは成功したかに見えましたが、イギリスのEU離脱も相まって、肝心の金融経済でのイギリスの存在感も低下しています。このイギリスの国家的判断が正しかったかは注意深い検討が必要です。日本はそういう国家的な政策による取捨選択は行っていませんが、結果的に産業側の“戦略ではないが結果的な変化”によって、今後重要だと思われる産業の空洞化問題への対応策を考えないとならない部分があります。。
l 日本政府、企業が先端基礎技術ばかり見ている現象を私は「先端恐怖症」と呼んでいますが、そうでない考え方でグローバルに活躍している企業の例はダイキンです。一柳さんはご存じですが、私はダイキンの長期の事業戦略の議論をコロナ初期の時にダイキンのトップと企画の方々と行い視野を広げるお話をしましたが、その後の展開を見ていますと、エアコンというどちらかというと地味な伝統的事業をグローバルに拡大しながら、その事業のユニバースを狭義のエアコンから空気や環境を対象とする事業に拡大され、きわめて順調に業績を拡大されています。
l 日本にとっての重要な分野である事業の議論の時に留意しないといけないことは、日本は先端のイノベーション事業でも遅れており、逆に伝統的な重厚長大やメカトロ分野でも競争力を失ってきているという事実認識です。
本稿は、あるコンサルティング会社からの質問への回答で作成したものです。
少子高齢化の問題は、日本がリーダーシップを発揮すべきコアの分野だと思います。その[YT1] は
Ø この問題は、(A)高齢化への対策についての抜本的発想の転換、(B)本当に実行効果がある少子化対策、(C)優れた人間性と付加価値創造型の人間の育成 という三つに分けて議論すべきだと思います。
Ø まず(A)の高齢化については、今の政官財の議論は、問題の本質を全く外れた議論だと思っています。
² この点は以前にもコメントしましたので、詳細は割愛しますが、今の日本の労働力問題、財政再建問題の最優先課題は、人材不足の中で、余剰化し、”必要悪“とみなされているシニア層を「生涯進化し、付加価値創造に貢献出来、それによって幸福感を持てる人材に転換すること」だと思います。
² つまり、人間という動物には、(1)運動という動物的仕事をしているスポーツ選手のように早ければ20歳、遅くても30歳台までに第一の人生の終焉を迎える職業もあります。(2)一方、日本の大多数のサラリーマンのように入社以降30歳代ぐらいまでは業務処理型の仕事とはいえ、新しいことを学んだり、管理職の仕事等の新しい刺激はある程度ありますが、それを過ぎると仕事の内容、環境、周囲の人間はかなり同質な環境が続き、出向や、転職のような大きな環境や刺激が無ければ、定年までは環境変化や刺激がないルーティンワークが継続する傾向があります。経営職になるとかなり違った責任や役割を経験することにはなりますが、そのキャリアになる率はかなり低く、それを経験する年齢は多くの場合50台を過ぎてからとなり、その前の30年近くの同質化した経験からなかなか変化できない結果、経営職になっても、大きく脱皮できる方はかなり限られているのが現実だと思います。その種の年功序列型の仕事の仕方は、政、官、財にほぼ共通のパターンであり、結果的に日本の政官財のリーダーの質については、グローバルな比較においても人材不足の感がある一因になっていると考えています。
² 一方80年代ぐらいまでの日本のサラリーマン社会の中で比較的刺激と成長があり、国際的にも図抜けて能力があったのは、現場型のブルーカラーだったと思いますが、その理由は現場業務には日々解決する多様な問題が起きそれを考えて創意工夫することが新しい刺激と頭を使って考える訓練になっていたと思います。大企業のブルーカラーの職場は下手をすると工場の機械のようなルーティンワークに終始しがちですが、戦後から70年代ぐらいまでの高度成長と製造技術や環境の変化や70年代から始まったTQC活動の結果、日本のブルーカラーが日々考えて創意工夫する習慣が継続したと思います。日本以外の国でもブルーカラーの仕事はありますが、多くの場合頭を使わずに肉体労働をして日々を過ごす傾向があると思います。ではなぜ日本だけがインテリジェントワーカーになったのかというと、それは日本人が長年培ってきた、高い職業倫理、向上心、仕事へのコミットメントと誇り、創意工夫、仕事と同化して夢中になり喜びを得る という国民性にあったのだと考えています。
² 一方日本の大卒ホワイトカラーが日本の人労働人口の大半となった90年代以降は、経済の浮き沈みや国際環境の激変はありましたが、日本国内のホワイトカラーは、本当の意味でのグローバルな変化を肌で感じることなく、同質の環境の中でのルーティンワークでの日々が続いてきて、知的刺激が少なかった傾向があると思います。つまり本来インテリジェントワーカーであったはずのホワイトカラー自体が、マンネリ化した日々業務をこなすルーティンワーカーとなりながら、暗黙の了解となってきた終身雇用や年功序で危機感も無く守られてきた結果、職業倫理や、向上心、創意工夫の習慣も低下したということが現実なのではないかと思います。そういう知的刺激や日々の創意工夫と遠い環境で60年近くを過ごしてきた人材が突然定年を迎えると、仕事の楽しさも新しいことにチャレンジする楽しさ、未知のことでも学んで創意工夫することからも遠ざかっている結果、年金生活になったり、生気がないセカンドジョブとなる傾向が否めません。
² 一方、一旦社内から離れた出向を経験したり、様々な理由で転職を経験したり、異種の刺激を体験したホワイトカラーは、緊張感の中での新しい環境、新しい刺激、必死に学び創意工夫し、ゼロから仕事を切り開き、その中で自分の貢献や実力をスピーディーに発揮しないとならない緊張感の中で創意工夫する経験が習慣となり、脳を常に使い、日々自分を進化させ、付加価値を創出することが習慣になり、それが仕事の楽しさになるというプラスの循環となるきっかけが生まれてきます。無論同一の職場で創意工夫し、自らがチャレンジを見出して進化し、付加価値を出し続けるサラリーマンもいますし、転職ばかりを繰り返して上手く行かないケースも多いのは事実ですが、今の国民の大半を占める大卒ホワイトカラーが、日々頭を使って創意工夫し、自らを進化させ、付加価値を創出し、その結果死ぬまで楽しく仕事ができるような仕組みを、社会や企業の中で作っていくことが高齢化社会の第一の課題です。その結果高齢者となっても自らのコストを超える付加価値を貢献するようになれば、社会の年金負担も激減するはずです。
Ø (B)少子化対策については、企業としてできることもありますが、むしろそれは政官の仕事の比重が大きいと思います。すなわち漸増型のバラマキ行政ではなく、抜本的な出産、育児環境を整備することが必要で、極論を言えば出産費用や義務教育の無償化、ベビーシッターや保育費用の無償化等を国家負担とすることの社会的費用と、その結果(C)で述べる政策と相まって育った高付加価値創貢献型の国民が創出する税収入との投資効果を算定する等の、大胆な施策が必要だと思います。
Ø (C) 優れた人間性と付加価値創造型の人間の育成は上記の(A), (B)が成功するための必須条件であり、後に述べる日本がグローバルに活躍すべき分野そのものでもあります。この点は別のアーティクルでも述べましたので 別の詳述は控えますが、「自己中心的、打算と自己利益の最大化、倫理観や国際法を含む法の基本的精神を無視した行為、貢献より搾取、勝てば官軍、黒でも白でもネズミをとれば良い猫」等近年の行き過ぎたグローバルな価値観に対するアンチテーゼとして、新しい世代の共感も得られる日本流倫理教育を再構築して人材教育を行うことは大きなグローバル社会への貢献ともなり、 日本の競争力の源泉にもなると思います。同時に、「自己責任、リスクをとる、良い意味で分をわきまえず果敢にチャレンジする、自らが道を開く、進取の精神等」グローバルな人材から学ぶべきことやグローバルな変化の風を体感させる仕組みも起案し、実施すべきでしょう。
岸田政権の誕生に端を発して、新しい資本主義についての議論が始まっているようです。その要素として、SDGや社会貢献、格差社会への対応、倫理感の醸成、技術変化や今後の有望分野等の要素が検討されている印象です。
私自身は、その分野やマクロの分野の専門家ではありませんので学問的なコメントはできません。ただ、長い間企業経営というミクロの仕事に携わってきた人間として、ここ20年近くの劇的な変化や、コロナ禍や、トランプ時代の米国、中国、ロシア等の政治の混乱と、それによる企業や経済への影響を考えますと、過去の先進国の政治や経済、xxxx主義等の常識について抜本的に考え直さないと、これからの経営は行えないという強い危機感は持っています。そして、そのミクロ経済や企業経営における危機感から見ますと、なんとなく今行われている新しい資本主義の議論は、政界、官界、学界やマスコミが好む“何となく斬新さの印象を与える新たなスローガンやプロパガンダ”、英語でいうところの“jargon”の遊びと、従来型の発想の延長線上で考えられているような印象を禁じ得ません。
かといって、かく言う私も新しい資本主義についての明確な答えを持っているわけではありませんが、経営者の視点で一つ言える事は、これまでの常識や前提条件としてきた考え方を一旦すべてご破算にして考えないとならないということだと思います。この理由も含めて、今後の経営や経済運営にとって重要だと感じていることをお話ししてみます。
l グローバル化と価値観の多様化
Ø 今どんなに国内型の事業であっても、今後の企業活動において国内だけで完結できる事業はほとんどなく、技術、情報、コミュニケーション、競合、市場等、大なり小なりグローバルな影響を受ける事業がほとんどです。ですから、かつての一部の日本企業のような「国内の価値観や常識で優れた経営をして行けば、成功し続けられる」という事業はほとんどない、というのが現実だと思います。
Ø そういう中で、戦後、日本を含む先進国が基本としてきた、資本主義、民主主義の漠とした概念がおおむね共通認識であり、「途上国も先進国のレベルに追い付いてくるにしたがって、先進国型の考え方や国家運営になってくるだろう」という希望的固定概念がありました。従って、最近までの米国の中国、北朝鮮、ロシアとの付き合いの基本スタンスも「今はかなり酷い国家運営だが、米国が彼らとフレンドリーな関係を作り、彼らのニーズに答えながら彼らが経済的にも発展して行けば、いずれは米国型の資本主義、民主主義の方向と国家運営の常識の線に乗ってくるだろう」というのが考え方の根底にあったと思います。しかしながら、ここ最近の結果から見ると、中国、北朝鮮、ロシアは見事にこの想定を裏切ってout of controlになり始めています。
Ø これについて、上記三国は極端な例ですが、それぞれの国は、かなり異なった長い歴史と、過去の成功や失敗、外国との確執、国内の歴史的試行錯誤とそれに根差した価値観や常識は、単なる人種以上に根深く遺伝子に刻み込まれています。その異なった遺伝子は、他の先進国からの遺伝子を取り込みながら、その国家や国民が力をつければつける程、その違いや独自性(ego)の自己主張も顕在化してきます。その価値観や常識の違いは、(1)何を大切にし、何はどうでも良いか?(2)何を目指し、何をモティベーションとして努力するか?(3)自他や自己と社会の利害をどう考えるか?(4)倫理、正義、信義、善悪、公私、忠恕、公恕等をどう考え、どの程度の強さで拘るか?(5)Principleとpragmatismのバランスはどこにあるか?(6)人間としての正しさの定義(7)美意識(8)何にプライドと拘りを持つか?(9)宗教を含めて何を信じ、何を信じないか?等々、国や国によっては国の中の地域毎の価値観や基準は、かなり違うと思わざるを得ません。
Ø こういう違いは経済力や国力がついてきてもその遺伝子の中に変異しながらも残っており、そう簡単に同質化しません。さらにまずいことに、貧富の差はありますが、こと情報についてギャップは昔ほど大きくなくなってきています。そういう中で、かつては「いずれアメリカのようになりたい」という憧れのピラミッドの頂点であった米国自身が、必ずしも理想郷でも正しい価値観の象徴でもなく、思ったほどの力が無い。他の先進国もそれぞれ色々な課題を抱えており、理想郷には程遠い。ということが分かってしまったのが今日です。従って目指す目標や理想郷が明確でなくなっています。
Ø そういう中で、ここ数十年の中で唯一皆が理解し易く、資本主義の中でも受け入れやすい公私ともの成功の尺度である“経済的繁栄”やそれが昂じてきたときの“拝金主義”が、国家や社会、企業、個人の中で、特に成功者やリーダーの中で蔓延した結果、利己主義と拝金主義が社会の暗黙の共通価値観となりつつあります。更に中国のように現在は経済的には成功をおさめつつあり国力のスケールも大きい国家が、その経済力を梃に、他国を動かして行く姿を見ると、ますます倫理観や社会性よりも、こうした自己中心的で拝金主義の価値観が蔓延する傾向を増幅しています。しかも、その他の価値観についてはかなりの差異がありますので、潜在的なコンフリクトの要因が存在しています。
Ø 従って、かつてのグローバル化の暗黙の了解であった「いずれ世界の価値観は先進国の価値観に収斂していく」という想定が妄想であり、おそらく今後も情報や活動はますますグローバルになる中で、拝金主義以外の価値観や正誤の判断を含めた考え方は、ますます多様化してくると考える必要があると思います。
Ø 過去において、こうした国や個人の価値観の違いがそれほど顕在化してこなかった背景には、国、企業や影響力がある個人が極限に追い込まれる事態がそれほど多くなかったという理由があったのではないかと思います。つまり、価値観の違いが顕在化して対立が顕在化する状況が起きるのは、“余裕がなく、極限まで追い詰められた者同士の利害の対立”という構図、つまり相手を許容する余裕がなくなった状況の時に顕在化するのだと思います。その観点でこの問題を考えてみますと
² 世界の経済は色々なことは有ってもかなり発展しており、少なくとも情報においての格差はかなり減ってきています。貧困問題もありますが、生きるという最低限の生活ができる人口の割合は急速に増えてきていると思います。そういう意味では、「生存の危機」という定義の極限状態はかなり緩和されてきているのではないでしょうか?前述のように、本来の対立は余裕がなく追い詰められた状態に発生するものですので、動物的生存という観点で言えば、社会的余裕が増えてきているわけですので、本来は極限同士の対立はかなり減ってきているはずです。
² では、そういう地球経済の発展が進んで社会的余裕ができているはずの中で、なぜ最近国同士やリーダー間の価値観の対立が顕在化してきているのでしょうか?中国、ロシアは言うに及ばず、米国でもなぜトランプ大統領のようなパブリックインタレストと対立するリーダーが出てきて、かなりの層から支持を得られるのでしょうか?なぜ、巨額の報酬をとっているはずのグローバルな大企業のリーダーや、政治家の中で経済的なスキャンダルが多発するのでしょうか?
l 私の考えでは、その理由は、国家や企業、リーダー自身の欲望(Greed)が、欲望と社会的行動の均衡点(equilibrium point)を過ぎて暴走してしまうからだと思っています。
l そもそも、ある程度の欲や願望は、組織や個人が社会的な貢献を果たす意欲となり、多くの場合一時期まではwin-winの関係にあります。ところが欲や願望がある均衡点を超えてしまうと、その追及は社会的にネガティブなインパクトを起こし、他の国や組織、個人との利害の対立を引き起こしがちです。つまりnobles obligeの追求ではなく、“成金の反社会的行動”につながってしまうからだと思います。
l 過去の本当に優れた国や企業のリーダーは、その変曲点を過ぎる前に自らの進退や役割を変えたり、自らの権力や富を配分したりする行動を起こしますが、最近は余りに個人主義、利己主義、拝金主義に基づく自由主義が蔓延した結果、倫理的、社会的行動の理解や原則も見えなくなり、その原則の理解自体もかなり違ってきているのではないでしょうか?創業20年そこそこの企業が、途上国の国家予算を超える富を手にする時に、そのごく一部を慈善団体や、社会的活動寄付することは本当の意味での均衡点を探ることにはなりません。
l つまり、巨大で限界を知らない欲望が、リーダーのキャパシティーを超えて増殖し始めている結果、本来大きな余裕を持っているはずの当該リーダーの余裕を無くして、追い詰め、社会や利害が対立する層とのコンフリクトを起こしてしまう結果になってしまっているのでは無いでしょうか?
² 一方、金銭欲や権力欲は今の社会では放っておいても自己増殖して行きますので、それを均衡させる社会的価値観については、かなりの努力をして教育と実践努力を行わないと、社会に必要な均衡点を保てない結果につながってしまいます。
Ø こういう認識に立つ時に経営者が考えないといけないことは、自分自身、自社、自国の価値観や常識と違う市場、顧客や消費者、社員やパートナー、ステークホールダーに対して、(1)まず、社会のニーズと整合し、自社が拘らないとならない価値観やprincipleを厳選し、進化させながら、(2)異文化や異種の価値観の中で、如何に効果的に浸透、徹底させるか、(3)異種の文化や価値観の中で、如何に柔軟に「和して同ぜず」を実践していくか、(4)環境や前提条件の激変の兆候を如何に早くとらえて、自らを進化させていくか、(5)異文化や価値観の中で自社が取り入れるべき要素を学び、自らを進化させ続ける、(6)価値観や文化を超えた、顧客や社会の潜在ニーズを如何に先取りして迅速に進化し続けるか・・・になるという気がしています。
l 技術や事業モデルの進化の加速のインパクト
Ø ここ20年程度の期間の技術や事業モデルの進化や、その結果生じている既存事業の盛衰、自由度の変化は目覚ましいものがあり、今後もますます加速すると思われます。
Ø その時に重要なのは、既存の特定の事業者にとっては、こうした技術の進化はマイナスになることが多くなるとは思いますが、実は顧客や消費者、事業モデルの視点から見ると、むしろこれまで不可能であり制約条件だと思われていたものの制約が軽減され、自由度が増しているものが多いのが実態です。従って、特定の業種の既存企業が、単なる既得権の守りに入るのでなく、登場してくる自由度を先取りして、自らを進化させることができるか否かが長期的繁栄の鍵になってくると思われます。
Ø SDGや社会的ニーズ、どんどん登場してくる技術や事業モデルについて、どの技術や産業が有望かの議論は色々行われています。ただその時に企業経営者として重要なことは、「特定の技術分野や産業が伸びるということイコール、その中での特定企業が繁栄し、成長し続けられるという事ではない」という正しい認識を持つことです。これまでもそうでしたが、ホットな技術や急成長分野には、事業収益の裏付けが無くても資金は供給され、ユニコーンが登場してきます。そして、そういうことに引き寄せられて、かなりの数で違った規模を持つ異業種競合も参入し様々なイノベーション努力を行いますので、付加価値は急速に低下し、ライフサイクルの短命化と陳腐化も加速します。シェアリングエコノミーやサブスクリプションモデルの登場により、ユーザーや消費者のスイッチの自由度は増大しますので、そういう意味での進化ができない事業やサービスモデルの陳腐化は加速します。従って、ホットな技術や産業イコール自社にとっての収益源で、将来の成長ポテンシャルと決めつけることは極めて危険です。
Ø つい極めて短期間で世界をリードするグローバル企業の雄と認識され、巨大な企業価値として評価されているGAFAMですが、既にその中でのMetaの試行錯誤が顕在化し始めているのが現実です。更にユニコーン企業の多くは、そのモデルの独自性と成長ポテンシャルが高く評価される結果、実態の事業収益の裏付けがないままに高い企業価値評価となっているところがかなりあります。そして、そういう企業の多くが若者にとっては目立った存在ですので、こうした企業価値形成の事業モデルが、若者の事業の成功についての基本認識になりつつあります。ただし、前述のような技術や事業モデルの陳腐化や競争力の急速な変化を考えると、最近のユニコーン型の成長先取り企業価値モデルは、長期的視野に立つと極めて危険であり、下手をするとそうした分野への投資は「ババ抜きゲーム」になるリスクがあります。
Ø 一方こうした技術や事業モデルの進化は、こうした動きを敏感に察知し、スピーディーに進化し続けられる企業にとっては、今までになり広い可能性を提供してくれる可能性があります。
l 成長神話の変化
Ø 必ずしもそこまで明確に定義されていませんが、これまでの資本主義の成功の一つの物差しは、規模と売り上げ成長力と、その結果獲得される収益、企業価値にあったと思います。それが、かつての重厚長大経済を生みました。近年は、その事業モデル自体の相対魅力度はかなり低下していますが、まだその残像は多くの経営者や識者の中での潜在意識の中で色濃く残っている気がします。
Ø そういう中で、新しい資本主義の中でもおそらく長期的“成長”(イコール長期的売上高の成長)ということが暗黙の「成功」の定義なのではないかと思います。
Ø ただ、この考え方はどちらかというと伝統的設備投資型産業モデルをベースにした考え方で、大きな投資をして、それを売上高の成長とそれに伴う利益で長期にペイバックするという概念がベースになっています。しかしながら、そういう設備投資型産業でも、半導体のように大型投資を2年前後でペイバックするサイクルを繰り返すというモデルの場合は、そのサイクルでの投資を止めると、あっという間にその競争力がなくなります。さらに、ネットワーク型の事業の場合、ネットワークを通じたフィー収入が大半の利益の源泉になる事業になると、売上高規模が企業価値を決める大きな要素ではありません。また最近のサービス事業のように、売上高イコール粗利に近い経済構造の事業は、粗利の絶対額の成長が基準となります。そういう現実を考えてみますと、売上高の規模と成長を成功の基準にする考えは、今後の資本主義にはそぐわず、その企業が生み出している“付加価値の額の成長”や“維持可能性”(sustainability)を基準にするような考え方の転換が必要だと考えています。
l 何を成功の基準や目標とするか?
Ø これまでの資本主義の基本概念は、経済価値の創造(即ちいかにお金を稼ぐか、企業価値を高めるか)を継続的に追及することでした。バブル前の日本においては、そこまで直情的な「企業利益最大化」という感じではなく、欧米企業が軽視してきた顧客ニーズの充足や、社員やサプライアーとの切磋琢磨による相互繁栄を追求しながら、その結果として企業の利益や規模が拡大してきたきらいがありました。ただ、バブル崩壊以降は企業利益の追求がかなり表立った目標になってきました。一方、バブルの崩壊や日本企業の地位の低下や、IT化を含む経営の基本の変化に伴って、欧米の企業は競争力を高めましたし、それと並行して金融経済への大幅なシフトとM&Aや投資ファンドの台頭と相まって、拝金主義的な傾向がますます加速し、ステークホールダーの中の株主利益中心の傾向がますます増加してきました。その間、2000年前後に企業倫理についての議論も一時台頭しましたし、最近には格差問題も話題には登っていますが、今のところは大きなインパクトを上げるまでには至っていません、そういう中でGAFAの台頭や金融資産の増加と相まって、ユニコーンバブルや、拝金主義、金融経済、利己主義への傾斜へのブレーキはかかってこなかった感があります。
Ø こういう風潮の中で、貧富の格差の中で、社会をリードする人材の中での拝金主義、金融経済志向はまだ続いている気がしています。むしろそういう金融経済から取り残された人々の中で、過度の拝金主義、利己主義からの離脱やSDG的な価値観が出てきていますが、これはまだ社会全体を大きく動かす原動力にはなっていない状況だと思います。
Ø 歴史的に見ると、国でも、企業でも、個人でも、拝金主義、利己主義の発想と利益志向が一定の限度を超えると、その結果国にも企業にも、また個人自身にもマイナスが昂じてくるという事は様々な事例で見えてきています。企業の経営者が自己の利益を最大化しようとして道を誤ったりすることはかなり多くの企業でも見られますし、「借入金や無理なファイナンシングをしてまで株主への過度の配当を増加させるという行為自体が、長期的に見た株主やステークホールダーの本当の利害には反する」という認識は、まだまだ理解されていないのが現実です。
Ø つまりこれからの資本主義の議論の中でまず考えられないとならないのは、利益とそれ以外の企業活動の付加価値とのバランスからみた、企業や個人の適正利益である均衡点(equilibrium point)はどこで、そのバランスをどう追求するか、そのバランスのポイントとその結果貢献できる付加価値で、どういう満足度と喜びを得るかについての議論だと思います。
Ø 私は財界人であった祖父から、「人間の喜びは自分が好きなものを食べ、好きなものを楽しむ喜びよりも、それ等を人に楽しんでもらってその喜びを得る方がはるかに大きな喜びにつながるし、それが本当の贅沢である。」「それが豊かな家庭に育った人間の義務(noblesse oblige)だ」という事を教えられてきました。拝金主義的喜びと価値観は、極めて分かり易く、自分の喜びの体験はしやすいので、放置しておいても今の若者に浸透していくことは確かだと思います。そういう中で、現在行政も含めて、金融や投資の教育に力を入れようという風潮がありますが、私自身はそれよりも必要なのは、自然に放っておいたら理解できない、しかしそれを理解して価値観の中にしっかり持っておくことが社会、組織、本人にも重要な要素である「金銭以外の価値観」をきちんと教育しておくことの方がはるかに重要なのでは無いかと考えています。
l 新たな社会に貢献し、相互繁栄できる企業や経営者の価値観
Ø 残念ながら、最近の世の中では社会、国家、企業、顧客、ステークホールダーの本質的利害や正義に反しても、短期的には成功できるという事例は枚挙にいとまがありません。
Ø ただ、「自分だけ良ければ」とか、「自分の現役の時に良ければいい」という発想の国家元首や政治家、官僚、経営者、リーダーの方々がおられることは事実ですが、こういう層は横において考えれば、そういう“かりそめの成功”は永続性が無く、いずれは手痛い代償を自ら払うことになるということが実証されるだろうという事は、多くの真っ当なリーダーや経営者の方には理解されると思います。
Ø 今はSNSの普及や、正誤が混在した情報の拡散により国民や顧客の正誤の判断が狂う現象は散見されますが、昨今のロシアに代表される国やリーダーの暴挙や愚行は、国民や消費者が「正しさ」や「真の社会的への貢献」に目覚めさせるきっかけにもつながる可能性があるのではないかと考えています。そして、ある程度の試行錯誤や失敗を経て、社会的ニーズやベネフィットに貢献することをやり続けることが、企業も個人も成功できる要件であるという事を理解する素地にはなるのではないかと思います。
Ø 他方、金銭的成功という極めて分かり易い価値観に混ざった、正しいものを理解する能力は自然に任せておいたら醸成できません。これはむしろ国を挙げて行うべきことではありますが、現在の政治、官僚、マスコミの状況認識の低さに鑑みると、企業としてこれに期待していてもらちがあきません。従って、これからの企業のリーダーにとっての極めて重要な課題は、(1)自然に放置していたら醸成されにくく、今後の世界に極めて重要な価値観を峻別し、(2)これを現代の人間に理解できる形で進化させた形に作り直し、(3)これを様々な国や価値観に合った形で徹底し刷り込む、という企業努力を徹底して行うとともに、自社のこうした価値観と整合性を持った組織運営を行うことが極めて重要になります。これは、従来の先進国が行いがちであった「自国の価値観を上から目線で強要したり、旧弊な教えや価値観を押し付けたりする」こととは異なることは留意しておく必要があると思います。
Ø 仮にこうした価値観の浸透が行われたと仮定し、その中で「貢献する適正なバランスの付加価値額の継続的成長」ということを成功の尺度として考え、先に述べた企業のライフサイクルの短命化した技術イノベーションの大幅加速を念頭におくと、今後のこうした経営環境の中で成功し続けられる企業にとっての重要な命題は
² 社会や顧客消費者のメリットに大きく貢献できる企業活動で付加価値を上げ続けられ、付加価値を成長させ続けられる企業を目指す(CO2の排出権売買のような刹那的、戦術的貢献ではなく、本当にメリットを出せる貢献)
² 顧客・消費者、社会のニーズと、そのニーズを充足できる技術や事業モデルを積極的に探索し、活用し、迅速に進化させ続ける
²
その為に、「新たな技術や事業モデルは脅威ではなく、従来の事業により大きな自由度をもたらす福音となる」という前向きな発想と、自社の現在の事業モデルや固定概念に縛られず、自社の自縄自縛の根源となっていた、常識、固定概念、“できない理由”等を打破する。
l 正しいファクトの開示と思いとの峻別
Ø 今後の環境や技術の激変、優勝劣敗の加速を考えると、企業社内もそうですが、政治や官僚、マスコミ等が出す情報や事実の出し方も大幅に変化させる必要があります。
Ø なぜかと言えば、今回のコロナやロシアの問題も最たる事例ですが、今の専門家やエキスパート、業界のリーダー企業といえども、最近起きている技術、今後起ころうとしている変化が本当にどういうインパクトを与えるかという事が分からないことが多くなっているというのが事実だと思います。
Ø そういう中で政府や行政、マスコミが出す情報は、専門家や有識者の限られた理解に基づく思い込みや、個人的な見解、過度のネガティブな意見や、過度の楽観的意見になっています。そういう中で、自分が達成したい願望や誤解も含めた思い込みを主張するための、恣意的な情報コントロールを行ったものが多くなってきます。テレビによる情報も、昼の番組では人気があり何らかの大衆受けするタレントが本当にわかっているとは言えない意見を述べたり、専門家が自分の真の理解を超えて意見を言ったりすることが散見されますし、SNSに至ってはもっと分からない大衆が、自分の思い込みによる情報を流しています。
Ø しかしながら、その人たちが本当のことを言えば、「よく理解できない、よく分からない」と言わなければならないことがかなり多いはずだともいます。マスコミも、かつてはかなり勉強し、考え詰めた中でのかなりロジカルな主張を行ってきた時代があったと思いますが、最近の傾向はむしろ時流に合わせた報道や、何でもあら捜しをして批判する報道がかなり見られる気がしています。
Ø ではどうしたらよいのかは難しい問題ですが、こと日本についていえば、コロナのコントロールの状況を見ても、必ずしもしっかりしていると言えない政府や行政がリードする状況下で比較的感染者がコントロールされ、医療崩壊も起きていない理由は、日本人自身の持っているバランス感覚や倫理観、判断力と自己管理能力にあるのではないかと考えています。グローバルな政治のポピュリズム志向の中で、かろうじて日本がぎりぎり踏みとどまっているのは、ひとえに日本人がまだ完全に失っていない良識と判断力の遺伝子なのではないかと考えています。
Ø そのような、かなり国民全体の判断力、社会性や倫理観、バランス感覚が優れた日本についての“情報”についての解決策は、極力包み隠さず“事実”を伝えることだと思います。事実を伝えるという事は簡単に聞こえますが、何が正しいかが分からない状況の中での事実の伝え方には、基本的なルールがあると思います。
² 結論や意見の前に、可能な限りその判断に必要な重要なデーターや事実、考え方をオープンに伝える。
² そうした事実は、自分が伝えたい答えをサポーするものだけではなく、それに反する事実や、異見もきちんと伝える。
² その上で自分の見解があれば、その考えに至ったロジックや重要な考えを伝え、まだ解明できない点を伝えるとともに、自分の見解が絶対に正しいのか、正しいような気がしているのか、分からないのかも明確にする。
² つまり賢い、考える力がある国民に考えさせるための重要な情報を、可能な限りバイアスなく提供し、考えさせることではないかと思います。
Ø こういう事を言うと、すぐに「それでは社会不安や混乱が生じる」とかの批判が出がちです。今のコロナや世界の紛争についての政府や行政の公式見解は、まさに当たり障りが無く、極端な不安が生じないような加工がされた見解が流されています。しかしながら、そうした見解の多くが、発信者自身も本当はそれが正しいかどうか分からないものや、もっと悲観的に考えなくてはいけないと思いながら発信しているものもかなり混在している気がしています。しかしながら、こういう事実をオブラートに包むやり方は、こと日本については逆効果では無いかと考えています。一つの例として地震や災害についての報道があります。東日本大震災の前での地震や災害のリスクについての報道は、実際のリスクへの理解よりも、極力国民が過度の心配やパニックを起こさないような情報の流し方だったと思います。一方、こうした姿勢は、東日本大震災や、昨今の台風被害等でかなり変化し、今はかなり厳しいリスクの可能性や情報を明確にかつ堂々と出すようになっています。テレビ番組も、堂々と日本が海底に沈むドラマや、パンデミックのドラマ等が放送されています。その結果、日本でパニックが起こっているかというと、むしろそういう傾向よりは、国民自身が考えて自己防衛策を取り始めている気がしています。
Ø つまり日本人はかなりの事実の消化能力と判断力、バランス感覚がありますので、あやふやな答えではなく、正しい多面的な情報を提供した方が良いと考えています。
Ø ただその時のデーターについて気になる点は、今の政府、行政やマスコミは、判断の参考になる事実の出し方の基本が分かって気がしています。例えば「コロナの死者数がXXX人になり、最大だ」という報道が毎日続いています。更に「重症化しないと言われてきたオミクロン株での死者が、デルタ株を超えた」(言外に「オミクロン株が危なくないというのは間違い」とのメッセージが込められている)というのが典型的な報道の姿です。しかし、分析的思考の観点からすると、絶対値の数字はほとんど意味を持たず、最低でもベースにする数字で“割り算”をした結果でないと判断の素材とはなりません。つまり数字やトレンドはそのベースになる数字との比較でないと判断材料にはならないという事です。つまり死者数も、「何人亡くなった」かだけではなく、死亡者数を罹患者数で割った数字で比較しないとオミクロンとデルタの危険度の比較はできません。またコロナの罹患者数が高い状態では、罹患者が少し減少しても罹患者数と重症者数、死亡者数にはタイムラグがありますので、その比率がどう推移しているのかを見ないと判断ができません。
Ø つまり、今後予見される「誰もが正確な答えを出しにくい状況下」では、“想い”や“思い込み””憶測“の意見で断定することよりも、よりバランスがとれ判断に結びつく優れた情報をオープンに提供することがこれから大切になると思いますし、その為には判断の参考になる形でのデーターの出し方にも、かなり進化が求められていると思います。
以上のような、ミクロの経営的価値観が、どういう新たな資本主義として具現化できるのか分かりませんが、まずブランドやレッテルより前に、何が変わって、どういうリスクとチャンスが来ているのか、その結果企業活動の幅や自由度がどう増すのかに基いた考え方を組み立てる必要があると思います。更に、自然に任せておいても正しい方向に変化する価値観、むしろ暴走のリスクがある価値観と、逆にかなり重要なカウンターバランスの価値観で、意図的に努力しないとできない価値観を明確に理解した上で、その醸成ニーズに、スピーディーかつ一貫性を持って対応し続けるシナリオを考えることが重要なのではないかと考えています。
以下は私の友人からのDXについての質問への回答ですが、DXについて色々お悩みのトップの方々への参考情報としてご一読下さい。
XXXXさん
ご無沙汰していますが、久しぶりにメールを頂きましてありがとうございました。
今回のDXのテーマは、私自身がまだプロとしての意見をお伝えできる課題ではありませんが、自分が考えている範囲でコメントをお送りいたします。
本論の前に、今回の私のコメントの背景をご理解いただくために、少し自分のことをお話しさせていただきます。それは、以前お話ししました私が体験した脳梗塞の影響という点ですが、前回の脳梗塞は私に色々な変化をもたらしました。無論マイナスの変化もいろいろありましたが、私自身から見るとプラスの変化の方が多かったと感じています。その中で一つの自分にとってのプラスの変化は、「メリハリと割り切り」という変化です。実は、私はかねてからメリハリをつけるのが不得手で、すべてに対応しようと努力をする傾向がありました。無論それも良い点は色々ありましたが、脳梗塞で自分が有限の命であるという認識を新たにするとともに、従来よりも限定された能力であることを自覚した結果、自分がやることとやらないことの割り切りができるようになった気がしています。今回岩崎さんのご質問にダイレクトにお答えしていないのも、この割り切りが一因です。
この割り切りの理由は、自分が高齢化と身体的にハンディキャップを負ったことは無論ですが、昨今の社会や技術の激変と、ネットやSNSのグローバルな普及の結果、様々な情報や技術、事業モデル、マネジメントに関する情報の量や種類が飛躍的に増大したことにも起因になっています。さらに、そうした膨大な先端技術や応用技術の新陳代謝のスピードもものすごく早くなってきています。特にDxのように世の中が注目し、赤字ベンチャー事業にも法外な資金が集まるような分野では、この傾向はますます加速すると考えています。そういう分野で、特にDXのようにまだ歴史も浅く業界の経験もまだ限られている中においては、専門家といえどもすべての情報や応用技術に精通することはかなり困難だという気がしています。特にそうした技術が利用できる、対象業種や企業の中での機能やビジネスシステムのすべてを把握し、常に最先端の情報をカバーするのは至難の業だという気がしています。実際にそういうエキスパートの方々のお話を聞きますと、特定分野や技術、視点から発想するお考えが中心な気がしており、深くDXのすべての分野を正しい視点でカバーできるエキスパートを探すことは中々難しい気がしています。
さらに日本については、そもそものDX関連技術が遅れていることもありますが、それ以上の日本のハンディキャップは、そういう技術を積極的に活用して現場、事業モデル、業務の改革をする(DXという言葉が登場する以前の、様々な業務改革も含めて)という姿勢や試み自体がかなり遅れているのが現実で、そういう意味で特に日本において広く深い知見や応用事例に長けた万能エキスパートはかなり少ない気がしています。
更に申し上げれば、この分野はまだ発展途上の分野でありながら、この分野自体の進化のスピードがかなり速く、しかもネットやSNSの浸透でイノベーションが起こる国や、業種、企業がものすごく多様化し、そういう理由もあってグローバルにベンチャーが乱立しているのがDXの分野だと思います。そういうDXのような分野で、万能な参考書や専門家に期待し過ぎることは危険な気がしています。
無論色々なエキスパートに話を聞いたり、各社の取り組みを学んだりすることには意味はありますが、後に申し上げる理由で、ことDXについて企業のトップとして必要なことは、自社のプロセスや業務に熟知しておられるトップや優秀な幹部の方が、DXの基本的な視点をある程度理解された上で、自社が取り組むべき業務やプロセス、サービス等の大幅な進化に関して前向きに取り組みたいと思われる願望リスト(wish list)をお作りになり、それに貢献できる可能性があるDXエキスパートや事例を探すという「自社がリードする取り組み」から始められることが正しいアプローチではないかと考えています。
その意味では、私自身は今回のご質問にダイレクトにお答えする役割には適任ではないと思っており、今回はXXさんのご用命に直接お答えすることは難しいと考えました。その代わりとして今回お届けするコメントは、テクノロジーのエキスパートとしてではなく、広義のDX関連技術を活用して、事業自体を進化させる立場の企業や経営の視点にたった個人的見解をお届けすることに致しました。DXは色々な分野が含まれますが、本稿では業務や事業モデル、仕事の仕組み、人間業務の機械やシステムでの置き換え、そういう分野でのコストの改革や新たなサービスブレークスルー等を「DX対象業務」と総称してお話ししようと考えています。
DX対象業務の実態
l DXの対象業務のイノベーションが起こるのは、直接的にはそれに活用できる技術の登場ではありますが、逆に言えば、その背景には既存の仕事のやり方や固定概念による機能不全や非効率、コストの常識が存在していたことが実態です。私は1993年に米国のHarvard Business Reviewに「Fixing Japan’s white collar economy」というアーティクルで、日本のバブル経済に端を発した日本のホワイトカラーの非効率について課題提起しました。ただ残念ながら、そこから40年近くの時間がたった日本の仕事のやり方や事業モデルの改革は、かなり遅れたままでいます。
l そういう非効率が放置されている理由は色々ありますが、大きくは以下のような阻害要因があると思います。
1. 日本、特にミドルマネジメント以下の層は現場感覚がある人材はたくさんおられます。これは無論良いことではありますが、そこに日本人の常識的で現状追認型の考え方を加味しますと、現場の知見が現状を是としてそれをギブンとしてものを考える価値観や風土が醸成される傾向があります。技術面においては、TQCや“Kaizen“活動がかなり活発な時期は、コストや機能改革は進みましたが、ホワイトカラーの大卒獲得競争も相俟って、この分野は現状追認型の傾向が続いてきました。
2. 従ってIT化についても、現在の業務のやり方を前提にシステム化を図ろうとしますので、「労多くして功少なし」に終わってきた歴史です。これは官庁でもっとも甚だしいのは事実ですが、事業会社でも司司の関係者が、それぞれ自分の求める条件を完全に満たそうと思う余りに、かえって複雑化しコストも効果も低減されないという事が良く起こります。例えば、ごく最近の海外渡航者のコロナの待期期間を2週間から10日に短縮する制度が導入されました。ただ、そのために必要とされるコストと手続き、その管理にかかるコストを考えると、3日の削減効果はほとんどなくなってしまうのが現実です。
3. 日本企業が一世を風靡した80年代までの時代は、欧米が企業側の都合でユーザーや消費者を軽視してきたのに対して、日本企業は顧客の視点に立った改善を行ってきた結果地位を築いたものでした、ただ、その後の40年間で、現状追認型で謙虚に自社を振り返り、顧客に沿った自己改革をすることに後れを取ってきており、特にグローバルでは仕事のイノベーションが起こった最近の20年間での自己改革で、大きく後れを取ってきています。
4. 一方、業務改革やシステム化、機械化等は雇用機会の削減を意味するという固定概念もあり、現場もマネジメントもそれには極めて慎重だったこともあります。
DX技術側の状況
l DX技術を保有している側は、DXの基礎技術を開発している側、応用技術を開発している側、応用技術を生かしたサービスモデルを展開している側の三タイプが存在しています。ただ、まだDXの歴史も浅く、対象となりうる事業やビジネスプロセス、サービス等潜在可能性は膨大な数に上ります。従って、世の中で注目されている分野や専門家自体も、本当の意味で見えている分野の知見が限られています。従いまして、それらを活用する側の企業が、DX専門家やDX関係企業自体からの提案を待っているのでは、かなりの期間がかかりますし、既存のモデルを自社で採用しようとすると、必ずしも自社の業務の重点分野やニーズと一致しないリスクがあります。
l さらに複雑な要素は、DX関連の書物には「先駆者が事業や利益を総取りする業界だ」という表現が見られますが、私はそうは思いません。こうしたコメントはGAFAMがかなり短期間にドミナントな地位を築いたことに基づいていると思いますが、実はGAFAMのsustainabilityに危機感を持っているのはGAFAMのトップマネジメント自身だと思っています。なぜかと言うと、GAFAMが先駆者として登場してきた時代以上に、今のDx関連技術の進化や様々な応用サービスが登場するスピードはますます加速しており、GAFAMも含めてde facto standardを持つ先駆者が持っているライフサイクルも、かなり短くなると思います。
l さらに複雑なのは、最近のインターネットやSNSをベースにしたサービスは、成長のための一定期間の膨大な先行投資→長期にわたる赤字→その結果の等比級数的成長→その結果の一時的な黒字→競合の参入によるサービスの多様化や価格競争→フリーサービス というサイクルをとる傾向が加速すると思いますので、先駆者のアドバンテージとde facto standardにより未来永劫の繁栄が保証される可能性は限られていると思います。
l 最近、大幅赤字のベンチャーに巨大な買収コストでM&A型で参入する大手企業が増えてきていますが、余程自社でそうした技術や技術者を有効活用できる明確な目算がない限り、“先駆者総取り”理論で青田刈りをし、しかもこういうハイリスク投資の原則である売却の判断を的確かつ迅速に行えない大企業が、こうした分野へのM&Aによる参入を行うのはかなりハイリスクであると思います。
ではエキスパートからの情報や提案を待つアプローチでもなく、青田刈りのDX関連ベンチャーのM&A参入でのリスクがかなり高いとすればどういうアプローチがあるのでしょうか?
利用企業側トップにとっての重要な認識
これもあくまでも私の個人的考えですが、私はDXについて以下のような仮設を持っています。
l DX及びそれに活用可能な技術やディバイスは、まだまだ発展途上のものもありますが、個人的にはDX化に貢献できる可能性がある技術やディバイスは、既にかなり豊富にあると考えています。無論、精度や緻密さ、コスト等の完成度にはばらつきはあっても、利用者側の企業が本気になって「自社の業務や事業モデル、仕事の仕組み、人間業務の機械・システムでの置き換え、そういう分野でのコストの改革や新たなサービスブレークスルー等」を行いたいと考えれば、かなりの仕事を置換したり進化させられたりするDXの仕組みは、開発可能だと考えています。
l 無論そのままで使えるものが無かったり、現状でのコストや性能に課題があるものが多いとは思いますが、需要家企業が関係企業と協力して本気になって活用する努力をすればかなりの実現可能性があるのではないかと考えています。ただ、技術の応用分野もかなり膨大であり、特定の課題を解決するためには、異種の技術の複合も必要になります。そういう中で、技術側は利用者企業側のすべての機能やモデルを知っているわけではないので、技術側からのアプローチですべての可能性がカバーできるという想定はできないと思います。
l その意味で、需要家企業のトップとして大切な認識は、DX化の制約は技術側ではなく、利用者側、つまり自社自身にあるという認識を持つことだと思います。
l もう一つの利用者企業側トップの重要な認識は、DX化を後ろ向きの“必要悪”としてとらえないことです。産業や企業は長い歴史の中で、意図せぬ非効率や、真のユーザーニーズと合わないコストやサービス、盲点、固定概念をため込んでしまうものです。今の日本の大企業は80年代からのビジネスプロセスが継続されている企業も多いので、特にその傾向が強いのが現実だと思います。そういう意味では、DX化は、自社の顧客や取引先、株主に大きく貢献できるチャンスだという事と、その結果企業が再成長していく事ができれば社員にとっても大きなプラスにつながる施策だというプラス思考で考えることです。
l これに関係した重要な利用者企業側のトップの認識は、DX化イコール社員の職を奪うという誤解を正すことです。確かに多くのDX化は、現在その業務を行っている社員の仕事を無くしたり関係人員を大幅に削減したりすることにつながることが多いのは事実です。特に80年代から肥大化してきた日本のホワイトカラーの仕事の多くは、DX化によって廃止されたり、置き換えられたりする対象業務になると思います。ただ、それイコール社員にマイナスな取り組みだと考えるのは明らかな誤りだと思います。
Ø そもそもそういう業務を放置しておくことは、企業の競争力の低下や顧客の真のニーズと反する結果につながりますので、それをいたずらに遅延することは顧客にとっても、企業にとっても、社員にとってもマイナスです。
Ø DX化の結果、従来の職務から離れる社員にとっても、早期にこうした取り組みを行う結果、新たな仕事に携わることは結果的には大きなプラスになります・・・終身雇用に近い一社の中で長年類似の仕事に携わり続けることは、社員自身のマンネリ化と新たな仕事での適応力、チャレンジ力の低下を招くリスクがあります。
Ø そもそも今の日本で忘れられがちなのはAX(analogue transformation)のニーズとチャンスの到来です。従来までの狭義のホワイトカラーの仕事についていえば、DXに置き換えることの方がメリットのある業務が多いのは事実です。一方、もっと人の手間をかけ人間がより深く関与した方が社会に付加価値が出る機能はたくさんあります。特に今後余剰になると思われるシニア層は、優れた現場経験や判断力、俗人的スキルを持ち、応用力や創意工夫というマインドもあります。また薄れてきたとはいえ、倫理観や社会貢献、誰かに役に立ちたいという意識も持っています。世の中の多くのルーティンワークがDX化に移行するとした時に、アナログ、つまり人間が新たにプラスの付加価値を創出できる業務の開発努力、即ちAXがこれからの社会にとっての大きなチャンスになってくると思います。そういう積極的なAX活動をDX活動と並行して進めることにより、DX/AXを全社あげての前向きな攻めプログラムとしてすすめることが可能になるのではないでしょうか?
利用企業側の取り組み
ここまででお分かりいただいたと思いますが、DXを活用する企業側のトップにとって重要な認識の第一は、正しく積極的に進められるDXは、自社の進化の為にも、顧客の為にも、社員の為にも大きなプラスにつながりうる施策だということです。
第二は、こうしたDX化のボトルネックは技術側ではなく、自社の業務やビジネスシステム、サービスを熟知している企業側が、積極的かつ前向きな姿勢で改革可能性を探るという姿勢の不足にあるという認識です。つまりDX側の歴史も経験もまだ限定している現実を考えると、技術側からの提案を待ったり、情報を待つ姿勢では進化のスピードに間に合わないという認識です。つまり、業務プロセスや真の顧客ニーズを熟視している利用側の企業が、前向きな施策として現在の業務をゼロベースで見直して、顧客や関係者にとってより効率が良い、新しい付加価値を届けられるプロセスやサービスとして進化させためにどうしたいかという積極的な活動を早期に着手し、もし対応技術があればドラスティックな進化に結び付けられるというwish listの作成に積極的に取り組まれることです。そのwish listの中には所謂DX技術を活用しないものもたくさん出てくるはずですが、DX技術はあくまでもツールで目的ではありませんので、自社の顧客、取引先、社員、株主にとってのイノベーションと進化につながるものをリスト化すべきでしょう。
そして、そのwish listに貢献しうる技術や専門家を探して、そこでのコラボレーションで進めることです。
具体的にどういうDX化のwish listを作成されるかの答えは、企業ごとに異なりますし、限られているとはいえ色々な企業の事例は報告されていますが、私が日本の大企業、特にグローバルなオペレーションに取り組まれている企業にとってインパクトが大きい重要な視点は次のようなものではないかと考えます。
そもそも、DX化にも様々な段階とアプローチがありますが、過去における日本企業の中での業務プロセスのIT化や所謂digitizationが組織の進化にあまり貢献してこなかった理由は、そのアプローチが現在の作業やプロセスを是として、それをシステムやデジタルで置き換えようと取り組んだためです。従って単なるdigitization(既存の業務をアナログからデジタルに変換する)やdigitalization(既存の業務をデジタル化する)ことを超えるDXでは、(1)顧客の視点に立って業務やプロセスそのものの価値や効率を抜本的に問い直すことと、(2)新たな技術を活用して新しいサービスや事業を創造することが主たる目的になります。
まず(1)の目的を追求するために一般的に重要な視点としては
l 業務やコストの価値評価と廃止:従来の慣習や長年行われてきたプロセスや業務等で、開始当時の付加価値がなくなったり、形骸化したりしたものがかなりあります。従って、DX化以前にまず行うべきアプローチは、その業務やプロセスそのものの本当に価値があるのか、廃止した時のリスクやメリットはどうなのかを厳しく問うという視点です。
l 重複の廃止、簡素化:長年継続されてきたプロセスや仕組み、ルール等は長い間に単なる複雑さと非効率の源泉となり、逆に顧客の真のニーズに合わなくなっているものがたくさんあります。先に述べた今回の海外渡航者のコロナの隔離期間を2週間から10日に短縮した時に設定された行政のルールは、その短縮のために必要な手続きやコストが大幅にかかり、下手をするとその手続き自体に日数がかかり、結果的に短縮日数も精々1~2日程度と短くなり、その為に渡航者が支払う追加の検査や手続きでかなりの追加コストが発生する結果になります。さらに業務での特別の短縮許可を得るためには、数週間前に申請をしなくてはならず、これでは現実的に短縮できる渡航者はかなり限られてしまいます。なぜこういうプロセスになるのかと言えば、それは色々なルールに関係する縦割り官僚組織がそれぞれの条件を完璧に満たす部分最適化の手続きを寄せ集めた結果であり、実はそのルール自体が「渡航者による感染を防止する」「短縮による経済波及効果を追求する」という目的にはあまり意味がないものがほとんどだからです。これは官の実態ですが、実は企業にも様々なプロセスや形式、チェックや承認、業務の関係者の数や流れには似たような意味のない複雑さやルールがあるものがかなり存在しており、その結果スピードも遅くなり、業務の質も低下し、コストは増大し、関係者間の責任感も希薄化するというものがかなり見られます。最近自動車業界で露呈した虚偽の品質保証チェックの問題や、証券会社のシステムの不具合の多発等も、こうした複雑なプロセスに起因している要素が多分にあると思われます。従って、DXに取り組もうと考える企業のトップにとっての重農なの視点は、今行われている業務やプロセスをその本来の目的と顧客の視点で問い直し、大幅に簡素化することにあると思います。
l 代替プロセス:自動化、プロセス統合、Robotic Automation Process (RAP):今後のDx化で重要になる視点は、人間が介在する度合いを大幅に削減するやり方です。そのためには、同じ業務を行う場合でも、システムでマニュアル作業を置き換えることや、担当毎に分断されていたプロセスを統合して、システムでのチェックに置き換えていくアプローチは常套手段です。さらに最近進み始めているのは、ロボットによる人間の作業の処理です。その時にRAPで現在障害になっているのは、人間に比してのロボットの精度や柔軟性等にあることも事実ですが、むしろ大きなネックになっているのは、置き換えられる人間の人件費とロボットの単価です。ロボットの価格は年々低下してきていますが、業務の変化に柔軟に対応できるためには、ロボットの投資回収機関がかなり短い必要があります。人件費とロボットコストの比率は業界によってもかなり違いますが、投資回収機関が3~6カ月ぐらいになれば、かなり魅力的で自由度が多い自動化に結び付く可能性があります。
l 業務コストの常識へのチャレンジ:DX化の動きは、必ずしも同一業界内で推進されるわけではありません。むしろDX化は、全く常識の違う業界の知見を持ったプレイアーからもたらされることも増えてくるでしょう。その意味ではDx化の浸透は業界ごとのコストやディファクトスタンダードを破壊して、進化を促すまたとないチャンスです。特に、今後企業が直面する常識崩壊のチャレンジは、プロセスや機能の陳腐化やイノベーションの課題に加えて、業務、プロセス等にかかるコストの常識へのチャレンジです。バブル崩壊後の自動車業界では、コストのリーダーシップをとっていたトヨタ等は毎年5~10%というターゲットでコストダウンを実施して、製造業のモデルとして高い評価を受けていました。それに対して、これから既存の大手企業に求められる業務やプロセスの効率とコストのチャレンジは、プロセスも、技術も、原価も異なるところとの競争になるリスクがありますので、おそらく50%、90%というドラスティックな目標での対策案の検討になるでしょう。そしてそういう改革ができない企業のプロセスや業務は、異業種から参入してくる競合サービスによって代替されるリスクがあるでしょう。従って、自社の業務プロセスやサービス改革のwish list作成にはドラスティックなコストターゲットに基づいて、その方法を探す取り組みが求められるでしょう。
l 業界、ディバイスごとのコストの常識の打破:前述のロボットにも言えることですが、類似のコンポ―ネンツやディバイス、ソフトの業界ごとのコスト差はかなり大きいのが実態です。この差は業界ごとの長年の歴史とメーカーの差異によって発生してきたものですが、類似のものでもかなりの差があります。分かり易い例を申し上げれば、機能的にも性能も構造も単純で部品点数がかなり少ないゴルフカートと、部品点数も機能的にもはるかに高度なローエンドの軽自動車や二輪ベースの四輪車の価格はほぼ近似しています。一方、かつてはコストリーダーであった自動車業界のコンポーネンツも、よりコストの常識が低い消費財のディバイスに比べるとかなり高いものがかなりあります。その典型的な例は半導体価格だと思います。その意味では、DX化においても、今後の企業のsustainabilityを担保する上でも、業界横断的なコストの常識を打破する取り組みが今後の重要課題になる気がしています。
(2)の目的であるDXを活用した、新たな事業やサービスに取り組む事例は色々な業界で徐々に出てきています。そういう動きは、DX技術や、DX技術を活用したモデルの経験者が、その知見に基づいて異業種に新たなサービスとして参入する場合と、既存のプレイヤーが、新たなサービスを開始するケースがあります。様々な事例の中で、今後重要になる分野だと考える視点を二、三ご紹介しておきます。
l 代替サービス、代替保証:
Ø これまでメーカーが行っていたサービスを、他の業者に代替させたり、ユーザー自身が行う
Ø 部品の統合や仕組みの変更でサービス自身が発生しなくなることや修理ではなく部品交換に置き換える
Ø サービス自体をオンライン化したり、逆に人による顧客密着サービスを付加したりする
Ø 従来購入が前提になっていたサービスをサブスクリプション型サービスに置き換えることや定期交換等に変更する。
Ø 使用状況が減れば、ユーザー負担も減るインセンティブ付きのサービスに置換する
Ø コールセンターのロボットサービスへの転換
Ø アンケートや満足度調査等を、ユーザー技術者と製品開発技術者をネットワークでつぐ方法に置き換え、改善ニーズや提案を開発に生かし、提案者にもインセンティブを提供する
Ø 顧客への配達を、インセンティブ付きの顧客による引き取りと代替
Ø 買い取りモデルからリサイクルモデルへの代替
Ø RPA(Robotics Process Automation)からIPA(Intelligent Process Automation)への代替
Ø メカとソフトの統合による代替。逆に、メカとソフト分離による代替(例:テスラ―)
l 未対応のニーズの充足型サービス:これらのシーズ候補は山ほどありますが、以下のような例は現在のDX・Ai技術であれば十分可能なサービスです。
Ø AXとDXを統合した、ワンストップ総合相談サービス:高齢者、受験生、DX難民、新制度・新ルール・新法制度
Ø 多言語型グローバルオンラインビジネスマッチングサービス
Ø 給与の日払いサービス
Ø 個人の雇用可能性をアップする統合マーケティングサービス
Ø オンライン成功報酬型コンサルティング
Ø ユーザーフレンドリーでない課題への各種請負サービス
Ø 有償仮想トラベルサービス
Ø マップと連動したグローバル オンライン リスクアラートシステム
Ø ローコストオンラインテーラーメードアパレル
Ø スピードオンラインラーニングサービス:例)初級者が特定の曲を速習する楽器の仮想型オンラインレッスンサービス
Ø 特定ニーズを持ったスマートフォンユーザー(または保護者)への特化サービス・・・未成年、高齢者、保護施設、ハンディキャップがあるユーザー、特定のリスクがあるユーザー(運転手、金融関係者、官僚、警察官 等)
Ø プロフィットシェリングと知的財産の保護を備えたクラウド型開発サービス
Ø 保護が必要な対象者の見守り・警告、AXを複合したサポートサービス(生活困窮者、いじめ、犯罪被害者等)
Ø 特定の国家、地域に必要な情報・アラートシステム
Ø オンライン上の情報の真偽を判定するサービス
Ø 業界横断型のコストデーターベース・イノベーションサービス
Ø ニーズとケイパビリティ―のマッチングサービス
Ø 6カ月投資回収のロボット(特定部位の機能の汎用ロボットメカ+IPAポテンシャルを備えたソフト)
Ø 為替リスクゼロのAiシステム
Ø 自動リスクフラッグ機能を持つグローバルAiシステム
Ø リアルタイムBDP(Best Demonstrated Practice) 情報検索・マッチングステム
Ø 生鮮食品、シェルフライフが短い食品のグローバルワンツーワン 販売
DXはグローバルなTeal型組織の入り口:
最後にDXが組織運営に対して与えるインパクトについてコメントしておきます。上記のような変化は、好む、好まざるに関わらず、これからの企業にとって避けて通れない道です。特にグローバルに展開している企業は、この波をより早く受けることになるでしょう。ここまで述べたDX化と同様、これを必要悪として考えるのか、それとも機会ととらえるのかによって企業の盛衰は決まってしまう気がしています。そういうプラス思考の目で見ると、これからのDX/AXの発達の副次的メリットは、これから進むであろう、グローバルな組織運営体制の進化にもつながるメリットがある点です。
最近話題になっているTeal型組織が本当に今後のモデルになるか、やそれが組織として統合可能なのかには議論の余地はありますが、いずれにしてもグローバルに展開している企業にとっては、その優位性を発揮するためにはDXを活用した組織運営への積極的取り組みは不可欠だと思います。
本稿ではその詳述は行いませんが、グローバル企業のトップがDxと組織運営体制への変化を考えるにあたって、極めて重要だと考えている視点について簡単にコメントしておきます。
l
可視化、オープン化、参画型の業務プロセス:今度は、情報の秘匿や偏在を前提とした経営を行って行くことはますます難しくなるだろう、という考え方についてはほぼ異論はないだろうと思います。そういう中で従来の多くの日本の伝統的企業が前提としてきた、「日本の本社を頂点とした階層型組織、日本・本社が優位で他の地域は劣位というような日本型中華思想」は極めて通用しなくなってきています。特にバブル以降の日本経済や日本の大企業の進化の遅れの中で、権威と階層でグローバル組織を引っ張っていく事は極めて困難です。またネットやSNSからの情報は、社内の情報よりもはるかにスピーディーにグローバルに波及しますので、情報や知識の面での先進国と途上国の格差はかなり縮小してきています。
そういうことを前提とし、グローバルという自社の優位性をフルに発揮するためには、情報の可視化、オープン化、リアルタイム化、そしてそれに基づくグローバル社員の企業活動への参加型の経営へのシフトは不可欠だと思います。
l
異種の視点、異種のノウハウの活用:その時に今の日本人が謙虚に認識すべきことは、80年代のJapan as number
oneの時代に比べて、今の日本や日本企業、日本人がグローバルリーダーシップをとれる分野はかなり限られているという事実です。
そういう正しく謙虚な自己認識を持って考えると、これから技術や経営の進化に関する問題意識やアイディアは日本人の上席幹部からではなく、グローバル組織の底辺にいる優秀な社員からもたらされる可能性があると考えられます。なぜかと言えば、特に途上国においては、日本のグローバル企業に働こうと志向する社員は、その国でもかなり能力が高い層からくる確率があると同時に、情報も積極的にグローバルからとり、日本人の幹部が歴史や慣行、常識で自縄自縛に陥っている中で、日本にはない発想や経験も含めて、より自由に発想できる可能性があるからです。
巨大なグローバル組織の中で、そういった世界のンボトム層から参画型で情報や発想をとり、それを発想元の優れた人材参加型でどう具体化していくかの仕組みをどう構築し、スピーディーに実行していくかの仕組づくりが、企業のトップの重要な仕事になってくると思います。
l エンゲージメントと付加価値貢献へのプラスのサイクル:そういうグローバル組織であることのアドバンテージをプラスにかつ迅速に生かすことができる組織は、今の日本企業の共通通課題である社員のエンゲージメントの不足と、付加価値創出能力の低迷という課題を解決することが可能になると考えています。
以上、現時点でのDXについての、私の雑感をお伝えしておきます。
現在の日本の労働人口の大半を占めるホワイトカラーの問題は、一番重要でかつ研究が不足している分野です。そもそもホワイトカラーと言う定義で語ることに意味がるか否かはありますが、大卒以上の学歴で、どこかの企業に籍を置き、自分のデスクがある長期雇用の社員と言う定義をしたものが、国民のマジョリティーであるホワイトカラーだと言えるでしょう。
日本の再強化の要は、限られた天才か優れた大衆か?
これまで色々な段階での日本の成功の歴史を見ると、その多くはごく一握りの天才的なリーダーや研究者たちが群盲の大衆を引っ張ったのではなく、倫理観、知的水準が高く、自らが創意工夫する意識が高い一般大衆だったように感じます。無論歴史の中には傑出した個人のリーダーや研究者の話もありますが、よくよく見るとその影響のもとに自らが判断し努力した中間管理者や優れた一般大衆があったことがその勝因であったと思います。
従って今後の日本の再強化を成功させるためには、特定のエリートへの教育よりは、労働人口の大半を占めるホワイトカラーを、現在の技術や進化の基準に基づいた優れた知的労働者として、育成することが最重点課題です。
ホワイトカラーの不足?余剰?
そういうホワイトカラーをマクロの視点で見ますと、少子化や人口の減少の結果、同じ経済規模で、同じ業務ミクス、同じ労働生産性であれば労働力が不足するという計算になります。確かに比較的労働集約的な業務である外食、物流、ケアサービス等の業務では労働者の不足が顕著ですが、これはこれまでの定義のホワイトカラーの業務と言うよりは、現場のオペレーションの労働力の不足ですので、これを持ってホワイトカラーの不足という結論は必ずしも正しくありません。無論ホワイトカラーの中でも、看護師、教師、保育士等の人材不足はありますが、これは業務の性格や処遇、現在の資格制度等の結果の不足ですので、これも不足の性格が違います。GX等のIT分野の人材不足はありますが、これは日本の教育、日-?日本の大企業の遅れと、その結果一気に需要が増加した結果の需給バランスの問題です。
それらを除いたホワイトカラーについての実態を考える時に、コロナが蔓延していた2年近くの企業の業務について少し考えて見ましょう。この時期には、多くのデスクワークの職場ではリモート勤務が行われて業務はそこそこ回っていました。そういうリモートワークの方々に伺ったところ、それによって労働時間や効率が甚だしく低下したのではなく、逆に家のこと自分のことを業務と合わせて行い、少し余暇の時間も取れる余裕が出来たというのが実態だった様子でした。無論、対面の方が良いことも色々ありますし、今日はかなり多くの大企業は通勤方式に戻ったところが多くなっているようですが、コロナの数年間で業務におおきな支障が出た様子はなかった印象です。つまりその2年間ほどの間は、実質的に少ない労働力で仕事ができたということになります。と言うことは、今の職場のホワイトカラーの仕事の中にはかなりの余裕や非効率があるということは、そう誤った推論ではないと思います。
日本、日本企業に枯渇している人財
では肝心の、これからの日本企業においての人材のニーズについて考えてみましょう。無論、日本の主要企業の今後の経営課題や企業内の人財ニーズについては別の詳細な議論が必要で他のアーティクルをご参照いただきたいのですが、あえて結論を申し上げればそれはトップマネジメントを含むほぼ全職種において、「①高い職業倫理と品質意識を持ち、②自分の職務を高く広い視点で見ながら、③その業務を顧客やイノベーションの可能性を常に考え、④その進化と付加価値の向上に貢献するイノベーションを考え実現する⑤その為に、異なった業種、技術、事業モデル等のヒントや発想を積極的に学び応用する。⑥それらの活動を自己責任意識と自主性に基づいて遂行し、付加価値を創出することでの喜びとモティベーションを継続できる人材」が、現在の日本組織で圧倒的に不足していると思います。
現在政官財で重要施策として挙げている、基礎研究や特許の取得等への注力、即ち世の中に存在していなかった基礎技術を発明するというinvention型の人材と投資の強化も、やり方によっては重要ではあります。ただ、今後の社会の進化のスピードとinventionについての発生源がより大きな資産や規模を持つ企業以外から出る可能性が増加する(逆に言えばinventionをスケールメリットの議論で計画的に成功させることはかなり困難になる)であろうことを考えれば、企業経営の視点でそれ以上に重要なのは、自分の顧客や事業、基本のサービス、技術や製品を、より広く高い視点、固定概念を外した異業種や異種の技術との複合や一部置換等によりinnovationを行い、その結果の進化と付加価値の創出を継続的に実施し続けることにあると考えています。
これ等は、日本が急速に発展し国力を強化した時期である明治以降から戦後の復旧の高度成長期までの日本のコアコンピテンスであったはずです。それに対してここ40年来の日本は、世界中で様々なinventionやinnovationが行われている中で、その技術への関心学習、取入れ、創意工夫というサイクルの全てで後れを取っているのが実態です。ただ、過去の高度成長期とここ20年や今後のグローバルな環境の最大の違いは、その時期の技術や事業家の先駆者が米欧の限定した数の企業から出てきた時代、途上国と先進国のギャップがかなり大きかった時代であったのに対して、直近は、inventionやinnovationのシーズがものすごい量で、しかも分散した企業の中から出てきており、リーダー企業自体も試行錯誤をしながら進化しているのが今日の状況です。また、それ等の膨大なシーズを既存の様々な事業に応用したり、既存のものを置換することによって大きく進化し付加価値が拡大する可能性もかなり出てきています。そういう中で普及のスピードも陳腐化のスピードも増していますので、かなり高度な判断と実施能力が求められることです。
これは、トップマネジメントによる経営においても、戦略企画、財務、マーケティングその他の機能や様々な事業モデルにおいても、事業を、顧客や応用可能な先進技術や新たな事業モデルの視点で常に見直し、新たなイノベーションに挑戦して進化させ付加価値を創出するということに頭を使えていない、頭が訓練されていないことが日本企業の低迷を招いている最大の原因だと考えています。本来はそういう事業会社に対してのイノベーションを提言し推進するはずのコンサルティング会社も、よりコンサルテントの人員を必要としてルーティン化しやすいシステムやオペレーションについての処理業務の外注的な大型プロジェクトにかなり比重を置くようになった結果、企業の進化と付加価値の創出やその為の組織運営モデルや人財戦略についてのプロフェッショナルが極めて少なくなってしまい、企業の進化への大きな貢献は出来ていない印象があります。
少数でなければ精鋭になれない
他方、現在の日本企業の組織を見ますと、職務分掌上はこういう新たな進化と付加価値を創出するべき役職には既に多くの人材が配置されていますので、数の上での能力の不足ではないはずです。ところが、そういう企業の関係部署の話を聞きますと、「人が足りない」と言うことが共通の問題意識のようです。一方では、コロナ禍が期せずして証明してくれたことは、在宅業務等の結果、現在の業務にはかなり人員の余裕がありそうで、実質的に人員が減っても機能障害が起きないという事実が明らかになっています。そして、この40年間に日本企業がやりようによっては進化のチャンスであった変化を先取りできずグローバルな地位を大幅に低下させました。政官財マスコミからの情報発信は、かなり歩調が合い過ぎていますが、肝心の進化の遅れと付加価値の創出と言う、競争力の面でも社員の処遇の改善でも必須条件であるはずのこうした議論が行われていません。これら一連の要素を組み合わせた時の、パラドックスの原因は何なのでしょうか。
この原因は色々な要素が複合していると思いますが、様々な状況証拠を組み合わせて考えますと、野党を含めた政、官、財、マスコミ、教育界が、悪い意味で同質化し、それが日本の国と国民関係機関における、「進化と付加価値創造をリードする経験の欠如と、できるマインドのある人財」の育成ができていなかったという結論にならざるを得ません。
本稿のテーマである知的イノベーターであるはずのホワイトカラーについて、更に考えて見ましょう。多くの方はご存じと思いますが、Japan as number oneがベースとしている1980年代までの日本の労働人口の構成は、知的労働者としてのホワイトカラーも無論混じってはいましたが、基本的には工場や現場の労働者と、技術、営業等の“ラインの人財”が中心で、所謂ブレインのホワイトカラーの人材はそこまで大きな原動力ではありませんでした。
ところがバブルの到来とともに起こった大卒の青田刈りと獲得競争の結果、あっという間にデスクを持ちスタッフの業務を遂行するホワイトカラーがマジョリティーを占めるようになりました。ところが高度成長期までのラインの人間と違って、本当の意味での知的労働者であるはずのホワイトカラーの仕事の高度化と教育、特に頭を使ってinnovationを行うタイプの教育は教育界も、経済界の中でもほとんど行われませんでした。特に大量のホワイトカラーの余剰を抱えたバブルの崩壊後においては、人事制度そのものも欧米のものを中途半端に導入したケースや管理の仕組み等を含む業務の細分化と形式が高度化しただけで、肝心の自社や自己の事業、担当分野における進化と付加価値の創出と言う視点でのイノベーションへの教育も、組織としての経験も、そして社員や経営幹部自身の実体験も不足してきたのが過去40年間でした。
そういう中で、使う側、教える側であるはずのトップマネジメントや上級幹部もイノベーションの実践への知見が限られており、バブル以降の中間管理職の役割の形骸化と影響力喪失の中で、役割が細分化し、人員だけが巨大化した組織の一員としての役割に終始したホワイトカラーだったのではないでしょうか?
バブル期に一気に肥大化した組織は社員の守備範囲や視点を狭め、伝送ゲームのコミュニケーションや形式が増し一つの業務をこなすための関係者が増大するとともに、その非効率が増し、その結果又人員が必要になるという悪循環が続いている職場が多くなっていると思います。そういう職場に追加人員を投入しても、あっという間に様々な非効率の中に吸収されコストだけが増える結果になってしまいます。そうして細分化した仕事のやり方や、考えることよりも日々のエクゼキューションが中心のルーティンワークの中では、個人としての存在感や存在意義を感じることも少なく、進化や付加価値の創造によるイノベーションを日々考えるモードとは程遠い環境だと思います。上からも、進化や付加価値創造に結びつくと感じられるイノベーションのタスクやヒントが下りてくるわけではありません。
こういう中で労働時間や労働環境が改善され、副業が解禁になり、進化と付加価値の増大を伴わない刹那的な賃上げだけで、自主性、オーナーシップ、頭を使った創意工夫、自己の存在感と達成感に裏付けられたモティベーションとドライブが創出されることは極めて困難だと思います。
日本企業の優れていたはずの品質や倫理観・責任感のあるオペレーションにおいての様々な一流企業の不祥事は、トップから現場までの倫理観、正誤の判断、顧客志向と、かつてTQC全盛の高度成長期にあった現場の問題意識、創意工夫、改善提案や課題指摘等のマインドが喪失してしまった象徴的な現象のように見られます。
こういう中でどこからメスを入れるかは難しい課題ですが、個人的にはきちんとした処方箋のシナリオを作った上で、思い切ってDX化を推進し業務を自動化、置換するとともに、ホワイトカラーの人員を50%から80%程度削減し個人個人のカバー範囲や視野を広げ、分業体制からより広い範囲を自給自足でハンズオンに進めることを加速するとともに、進化と付加価値創造に対するTQCのような活動を進め順次具体化するような取り組みが必要だと考えています。そしてDX等も活用して上手く設計したプロセスを踏むことで、こうしたDX化と少数化によってかえって個々人のルーティンワークの業務負荷は軽減され、最も重要な頭と行動により進化と付加価値を創出することにフォーカスできるようになるのではないかと考えています。
ドライな雇用関係の欧米であれば、ニーズがある時に大量採用し、その後リストラで振るいにかけるというやり方はあるかもしれませんが、実態としては会社を見限った社員から自発的に起こる転職は増加しても、実質的には終身雇用、それも60歳台を超えた終身雇用の日本では、大量採用、大量選別と言うことは出来ません。従って、個人個人で進化と付加価値創出能力を日々工夫させ、そのプロセスと成果から喜びとさらなる向上心を得るという仕組みとマインドセットを持てる環境整備が必要だと思います。
終身雇用がほぼ常態化して続く日本で、それを高度成長期のプラスの循環にできれば非常に良いことだと思いますが、一方では終身雇用の弊害となりうる企業と社員の間の“もたれあい”の問題があります。最近の日本を見ていますと企業側にも甘えがあり、社員側にも企業や行政が何かをしてくれることを期待する依存心が強くなってきています。そういう中で、特に日本のぬるま湯的相互依存体質を打破するためには、厳しい自己責任意識の醸成と、自己責任を全うした場合に得られる挑戦機会やその結果得られる満足感、ある程度のrewardの仕組みを設計した教育、即ちプロフェショナルな人材の育成が必要になると思います。
少数精鋭と言う言葉がありましたが、現状の肥大化した、細分化した組織を考えますと、「少数にすることで、本来個人個人が持っている能力を発揮できる精鋭になる」と言う考え方と同時に、そこで出てくる大量の余剰人員をいかに進化と付加価値の為に、社内外で活用するかを前向きに創意工夫して考えることが、日本企業と潜在能力がある日本のインテリジェントプロフェッショナルのwin-winの関係の好循環に結びつくのではないかと考えています。
世界が大きく変化するなかで、その変化のメリット、デメリットが見えてきています。一方、今低迷している日本や日本人ではありますが、日本が日本自身の自縄自縛を離脱して、その潜在多いテンシャルを発揮することができれば、日本が再び世界をリードできる可能性をかなり洩っています。その為の日本、日本人に求められる意識と行動とは何でしょうか?世界が大きく変わりつつあるということについて、異論を唱える人間はほとんどいないでしょう。
ただ、それがどういう変化なのかについてはかなり意見が分かれるところだと思います。私は個人的に、今の世界の価値観やパワーバランスが変わらない限り、少なくともこの10年間程度、世界は悪い方に進むという懸念を持っています。その理由は色々ありますが、その大きな理由は以下の5つに集約されるような気がしています。即ち、
1.
グローバルに自国・自社・自己最優先を公にも暗黙の内にも否定しない価値観が蔓延し、今のところそれを軌道修正する動きは見られません。・・・・前トランプ大統領から始まった、America
First、つまり自国の利害を最優先する動きを公然と主張する動きは、中国、欧州に波及し、今やこれがグローバルなディファクトスタンダード化している感があります。そういう中で、もともと自分個人の利益を最優先にする価値観が強かった国々の国民も、ますます自己利益優先の考え方が強くなってきている懸念があります。企業経営においても、イーロンマスク氏が率いるテスラグループの台頭やGAFAM、ユニコーン、デカコーン等の台頭は、技術や経済への活性化効果や変化の加速等への様々なメリットもありますが、一方では自社中心主義の価値観がますます強くなってきている懸念もあります。こうした、自国中心、自社中心、自己中心の価値観やそれに基づく成功ストーリーの蔓延は、自己中心的な価値観の蔓延を生む負の相乗効果となっている懸念があります。
現に、倫理観と真っ当な価値観であれば再選が考えられないと思われる次期大統領候補が、「それ以外に共和党を勝たせる方法がない」という理由で過半数以上のサポートを受けている米国の現状は象徴的です。こういう中で、中国、ロシアのどこから見ても倫理観に悖る行動が、実質的に許容されてしまっているのが今の世界の実態です。
2.
産業構造としては、今後も金融経済偏重の傾向が継続する可能性が高いと思いますが、個人的には社会にとっての健全な付加価値の創出に結びつかない金融利益拡大に歯止めがかからないことが懸念です。・・・・80年代の英国が金融経済への大きなかじ取りを行い、その結果英国の製造業は急速に空洞化しましたが、こうした金融経済の急速な台頭は、日本を除く主要国の大きなトレンドとなってきて、金融が産業の中心の位置づけになってきた国が増えています。
この是非についてはかなりの議論が必要ですのでここでは割愛しますが、一番大事なことは、金融利益の中には、社会の付加価値に貢献した結果得られる金融利益と、博打やマネーゲームに近い、つまり勝者が敗者から搾取することで創出される刹那的金融利益が存在しているという事実を正しく認めることが必要です。例えば、金余りを背景にした巨大な資金を動員し、短期での金融利益を追求するヘッジファンドの役割や、株式投資の中での”ショート“即ち株式価格の低下を予見した空売りの予約の金融サービスが、経済の付加価値にどういうプラスの貢献をするかと言うことはかなりの議論を要する一つの事例だと思います。
実は日本以外の先進国の最近の経済を牽引している要素の一つであるスタートアップへの投資利益についても、こうした金融経済と類似の二面性があります。ご存じのように、スタートアップ企業はユニコーン、デカコーンとなって新たな技術やサービスで社会の進化に貢献するとともに、結果的に経済にも大きく貢献する企業がある一方、かなり一過性で刹那的なマネーゲームに終わってしまうものがあり、特に最近までの過熱したスタートアップブームは、かなり長期に渡って赤字であっても株価が急騰し続けるものがあり、その結果破綻するケースもかなりあります。そういう中に、当初からかなり博打的なスタートアップもかなり混在していることは考えるべき要素だと思っています。
こうしたスタートアップや金融経済が、若者の大きな関心事となり、特に自己利益中心的な社会風土の中で過度の金融志向の発想が蔓延していくことには、かなりの懸念があります。その中で小学校から投資や金融の教育を行っていこうという国の方針も、ただでさえグローバルな拝金主義的な情報が飛び交っている中ではそのリスクサイドへの配慮も欠かせないと思います
3.
社会的不平等や富の偏在化への議論はある程度はあり、日本でも給与のアップの議論が活発になっています。ただし、内部留保の取り崩しを始めとする見当外れの議論ばかりで、肝心の給与の源泉となる付加価値の創出に対する企業と個人の貢献についての議論がほとんど行われていない印象です。
米国においてはインフレが続いており、一見その結果の給与のアップで貧富格差の是正が行われているかに見えますが、米国企業のインフレの源泉は便乗値上げによる付加価値の増大がかなり多く、社会にとっての真の付加価値の増大に貢献する活動がどの程度あるかは冷静な判断が必要ですし、その結果本当に貧富の格差が是正されているのかは要精査だという気がしています。
日本においても便乗値上げは増えてきていますが、日本企業や日本の労働人口の大半を占めるホワイトカラーが、日々の活動の中で付加価値の向上を実現しているかどうかは、はなはだ疑問だと思っています。私個人は1993年に米国版のハーバードビジネスレビューに、「日本のホワイトカラー経済」と題したアーティクルを書きましたが、その中で日本が1980年代のバブルでホワイトカラーの大量採用をして、それがバブル時に改善した粗利益率の多くを消費してしまったという事実と、その直後のバブルの崩壊以降日本の労働人口の大半を占めるホワイトカラーがその能力を発揮していないという指摘をしました。その懸念は長期に渡る経済の低迷や、その結果の日本企業の保守的企業経営の結果、バブル崩壊以降にもホワイトカラーの付加価値創出能力の進化は見えていないのが残念な現実です。これは70年代から80年代の前半にかけて日本の工場労働者が、TQC等の活動を通して“知的労働者(intelligent worker)”として日々付加価値の創出に貢献してきたのとは対照的な状況でした。
つまりバブル期以降労働人口の大半を占めてきた日本のホワイトカラーは、長い経済の低迷と企業自体の積極的な経営の不足と相まって、ルーティンワークを日々こなしていくブルーカラー型の仕事をして、新たなチャレンジや日々の創意工夫への注力、頭と創造的発想による付加価値の創出が不足した結果、グローバルな競争相手たちに進化が遅れたというのが現実ではないかと考えています。
ただ、個人的に色々な日本の産業を見ているプロとして考えると、日本のホワイトカラーも経営者も、今の自縄自縛から脱して、昨日より今日、今日より明日と日々付加価値の創出と、チャレンジを行う発想になれば、まだまだ日本が創出できる付加価値の余地は大きいと感じています。ただ、残念ながらこの議論も、リスキリング等の刹那的なスキルシフトの議論や副業を認める等の戦術的施策ばかりで、本質的な進化に結びつく動きはなっていません。
4.
テクノロジーの面でも様々なイノベーションが急速に進んでいますが、その中で最もプラスとマイナスのインパクトが大きいテクノロジーは、SNSとAiがベースとなる情報と技術の進化だと感じています。無論この両方の技術ともに、従来迄の権力の源泉の一つであった「情報や知識の格差」をあっという間に低減したという意味では、大きな社会貢献だと考えています。しかしながら、そのプラスのインパクトは認め、自分もそのメリットを享受しながらいる私が一番懸念しているのは、こうした技術・サービスのfault biasによる社会の混乱と正誤の判断の狂いです。
特にSNSのグローバルな普及は目覚ましい勢いで進んでおり、今はグローバルな最貧国の一般庶民の大半は、銀行口座は持っていなくてもスマートフォンはほぼ持っているのが実態です。その意味では情報自体の格差は無くなっています。ただその時に留意すべき第一の点は、そうした情報を見るSNSユーザーの間での知的水準、判断力、倫理観の格差です。
第二の点は、パーキンソンの法則です。パーキンソンは色々な法則を生み出してきましたが、その中で、「情報が身近なトピックであればある程、意見は百出する」という法則があります。パーキンソンはその例として、イギリス議会で高度な原子炉の設置についての提案があった時にはほとんど質問が無く通ってしまったが、議事堂の横にある自転車置き場の屋根をどうつけるかと言う課題が提示された時には議論百出で結論が出なかったという例を挙げていました。つまり人間は身近なことであればあるほど強い関心を持ち、いろいろ意見を言うという法則です。これはSNSについてまさに起こる現象で、高度で難解な議論、逆に言えば知的に考え学ぶことができるようなテーマには関心を持たず、自分の身近なこと、面白おかしく考え何か言いたくなる情報、人の不幸に関する情報等には皆が反応するという現象がかなり顕著になるという傾向です。つまり、いじめやタレントに対する個人攻撃がものすごい量とスピードで拡散されます。逆にこういうことを苦々しく思って、正しい判断力を持っている良識がある人間は、こういう発信には消極的ですので、判断力が無い多くの群衆は誤った反社会的な情報を信じる、というfault biasが働いてしまいます。
実はこの現象は、Chat GPTのようなAIについても類似の現象になると思います。これは質問以上に、Chat GPTに情報や意見をインプットする側の偏りや、Chat
GPTが引用する可能性があるネット情報等に大きなバイアスがかかっているリスクがあります。
IT初期の時にエキスパートによく言われたことは「ITを悪用するのは犯罪者の方が先行し、防止策は必ず後手に回る」と言うことで、それは今でも変わらないと思います。それをSNSで置き換えれば、人の悪意のコメントに関心を示すSNSユーザー、深く考えずに安易に自己の主張をSNSで流すタイプが積極的に発信し、逆にそれはおかしいという判断力や人格が良い人間はSNSやChat GPTの参考になるような情報の発信には、必ずしもに積極的でないという傾向が起こりえます。これがSNSによるいじめや、誤った情報、つまり悪意や誤った情報の方が急速に拡散するリスク、即ち fault biasのリスクです。AIについてもその判断の基本が多くの情報からのサマリーである限りにおいては、ノイズが多い情報にバイアスを受けるリスクがあり、それを修正するソフトを入れ過ぎると、AIの客観性が失われ。結果にバイアスをかけるリスクがありますので、いきおいfault biasは否めません。
つまりグローバルに普及したスマートフォンとSNS、AIは、知的水準や判断力、倫理観や常識に優れた人間でもリスクがありますが、ましてやこういうベースが未形成の人たちにもすべてが正しい情報として誤認されるリスクはかなり大きいと感じています。
5. こういう中で、SNSやAIの急速な影響力の増大を前提とした人間自体の判断能力と倫理観の向上が必須条件ですが、日本も含めてこのための努力が行われていないという現実は、かなりのグローバルリスクだと考えています。
これが、今私が感じているグローバルリスクです。先にも述べましたが、こうしたリスクはメリットももたらす要素でもありますので、一方的に否定できない難しい要素です。
そういう中で、私は日本の役割がかなり大事だと考えていますので、それを最後にお話ししておきます。
昨今の日本は先進国の中でも、中国等の台頭勢力に比べても、様々な面で遅れており経済も通貨も、円安要素を除いた給与水準でも劣勢です。企業ランキングもJapan as number oneと言われた80年代に比して、大幅にランクダウンしています。製造業も一時期の精彩は無く、立ち遅れてきた金融経済もスタートアップ・ベンチャーも低迷しています。今のビジネススクールの中での日本人は分かりませんが、国際環境の中での日本人はバブルの時のカラ元気もありませんし、必ずしも知的水準で劣っているわけではないグローバルなタレントの中での日本人のリーダーシップもそこまで進化しておらず、かつて比較的得意であったthought leadershipも取れていない印象です。ましてや、かねてより立ち遅れてきた政治は、“日本列車”の最後尾に位置しており、トンネルからなかなか抜け出せていません。
謙虚で多少自虐的な日本人は、そう簡単に楽観的になったり自信を取り戻したりはできません。90年代以降、保守的でリスクを取れないマネジメントと、従来よりも覇気が無く良くも悪しくもリーダーシップが見えないミドルマネジメントの下で、積極的な攻めの経験が不足してきたホワイトカラーは、思い切った前向きな発想になりにくい環境にありました。経済を見ても、不甲斐ない政治や政府、かつてはそういう政治家を発想の上ではリードしてきた官僚も、この40年近くの間に能力がはなはだ疑問な政治家の下でコントロールされている状況です。ホワイトカラーは、そのリーダーシップの試行錯誤を見て期待が持てない閉塞感と日々のルーティンワークの仕事の中で昨日と今日の変化や進化が体感できず、これからの展望が読みにくい環境にいるのが現状です。結果的に勤勉な日本人が、mentally lazyに陥っている現状も生まれている気がします。
ただ、私はそういう現状にもかかわらず、日本人のポテンシャルには高い期待を持っています。その理由は、日本人の歴史と長い間に培われてきた遺伝子、基礎能力、倫理感、バランスが取れた判断力、向上心、平均的知的水準は徐々に低下して来ているとはいえ、まだまだ諸外国に追い越されてはいないと考えているからです。こうした価値観や風土は、一朝一夕には変えられませんし、徐々にそうした日本人の良さが低下して来ているとはいえ、積極的に取り組めば進化させられる可能性があると考えています。
金融経済への偏重や錬金術、利己主義等になじみ切れていない弱点は、むしろ世界に迎合するのではなく、そういう世界の長所、短所を理解した上で独自の優れた道を構築することができれば、長所にも転じ得る要素にもなると思います。
他方、今の日本、日本人がこのまま努力して行けば、世界を正しい進化に導くことができるかと言えば、そう甘くはないのが現実です。そのためには、まず、日本全体が、世界が目指すべき正しい進化の方向と価値観についての明確なビジョンと、現在そのビジョンから乖離しつつある要素を思い切って軌道修正する方向についての考え方を共有化することです。政治や行政を含めた現状までのリーダー層が自分たちの対応の過ち、問題点に関する謙虚な実態認識と、大きな進化に向けての一貫した正しい軌道修正が必要です。より重要なことは、日本人の個人個人が自ら日々進化し、新たな付加価値を創造し続ける意識と行動を自ら始めることです。
その具体策は多岐に渡りますが、私は、その中で最も重要だと思われる要素は以下のようなものだと考えています。
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まず本来の日本の歴史であり、伝統であった倫理観と正誤の正しい判断ができる能力を再構築することです。これは今日の複雑な社会の中で難しいことのように見えますが、様々な新しい事象や情報に直面した時に、直感的に倫理観と正誤の判断力によって正しく嗅覚を働かせることは、常にその感覚で物事を考える習慣がつけば、そう難しいことではありませんし、日本人はそういう正しい倫理観と正誤の本能的遺伝子を持っていると思います。
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一方、今の日本人が必ずしも強くなくかつ必要な能力としては、物事を分析的に考え、深く理解し独自の見解をまとめる力です。日本人は評論家的に何かの意見や考え方の批判や、問題点を指摘する能力には長けていますが、自らが分析的、論理的に独自の見解を構築することはあまり得意とは言えませんが、この能力は今後世界の進化を理解する上では必須条件です。その為には同調主義や均質化を是とする教育自体を抜本的に変えなければならないと思いますし、記憶や暗記偏重で、偏差値を重視する評価や教育も抜本的に変えないとならないでしょう。言い換えて見れば、今の日本人にありがちなreactiveな思考ではなく、proactiveに自ら考える力を習得しなければならないと思います。
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特定の選ばれたエリートリーダーが社会を牽引するのではなく、日本の国民一人一人が持っていた優れた生き様と倫理観は、これも日本の長い歴史の中で培われてきたものです。藤沢周平が描く最下層の武士の物語に度々登場するものですが、弱小な地方で、腐りきった幹部が支配している藩に奉公する最下層の貧乏下級武士が、高い職業倫理と志で腐りきった藩を正すことに貢献するというようなシナリオが基本基調になって居るものが多いと思います。つまり、こうした組織や上司に影響されることが無く、独自の倫理観や行動規範で日々進化し付加価値を創出し続ける庶民の姿が、長い歴史の中で培ってきた日本人の優れた価値観だったはずです。これを再発掘する努力を行うことができれば、日本が健全な世界の構築に貢献できる要素になるはずです。
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日本の戦後復興から高度成長期までの発展は、「社員自体が自ら与えられた職責以上に切磋琢磨し日々付加価値に貢献し、その結果成長した企業のトップはそうした社員の貢献に報いる」という好循環が基本でした。この時期の主役は工場労働者、技術者、営業職等のラインの人材であり、それらのラインの人間が知的労働者として高度成長期の付加価値増大に貢献してきました。
その良き習慣は、80年代の後半のJapan as number
oneの影響を受けた誤った驕りと、その後のホワイトカラー中心で企業が低迷したポストバブルの40年間で日々の付加価値貢献と言う重要な習慣が弱体化し、ホワイトカラー自身の人材力は必ずしも高いレベルにあるとは言えないのがこの半世紀位の状況です。そういうホワイトカラー上がりのトップマネジメントも、必ずしもグローバルなリーダーに比して優れているとは言えない状況だと思います。そういう意味では、ホワイトカラーに対する付加価値創出型の人材への転換は、リスキリングとは全く異なった人材育成のプログラムが必要になると思います。
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本来こういう動きをリードし、加速させる役割の政府や行政、企業のトップ層で構成される財界やマスコミ、学会は近年は同調型の言動になっており、悪い意味でほ政官財とほとんど同じような考え方でまとまっているように見えます。しかも、そこから発信される施策やビジョンは、スタートアップや先進技術、特許数等においてグローバルな先進国にキャッチアップすることが中心で、しかもその重要だと選択されたはずの施策へのコミットメントのレベルも“中庸の美徳”のレベルを超えていないので、これでグローバルなリーダーシップを取れるかははなはだ疑問です。私は最近「inventionよりinnovation」と言うことを言い始めていますが、自分が世界初の基礎技術を発明するinventionよりは、そういう最新の基礎技術や応用技術をいち早く発掘して活用する製品やサービス、事業モデルを上市するinnovation活動の方が日本に合った展開になるということです。実は今の産業の中で高い成長と付加価値をあげ続けて成功している企業の多くは、先端成長市場ではなく、成熟事業の中で進化のイノベーションを進めている勝者であるという認識が欠けている気がしています。“遠くの芝生を見る”よりも、様々な技術の応用開発や事業モデル、足元のイノベーションを積極的に推進するという発想が、かなり重要な気がしています。
要は、日本人の一人一人が、日々昨日よりは今日、今日よりは明日と、新たな付価値を創出する喜びを体感し、それによって企業も国も富むとともに、その継続的な付加価値の成長部分が国民に還元されるという好循環を再構築することが日本のグローバルリーダーシップを再強化するとともに、正しい倫理観、正誤の判断で世界が健全に成長することへのリーダーシップが取れるようになるのではないかと言う期待を持っています。
令和6年2月15日
前回の補足
スローンスクールの皆さん
前回はお聞き苦しい声のセッションにご参加いただきながら、活発な質疑応答ができましたことに感謝しています。
実は帰国して間もなく参加した二つの財界人会議の時に私が話したことと、皆さんにお話しした内容のフォローとして皆さんに申し上げたかったことが一部重なっていましたので、その点も含めて補足のコメントをさせて頂こうと思っています。
ボストンから帰国した後から、動脈瘤のフォロー、腎臓癌の対策の検討と準備、心房細動の再発と二度目のアブレーション手術の準備、橋本病への対応等々の健康対策と仕事が重なり、皆さまにお送りするのが遅れたことをお詫びします。
皆さんが、今後の日本の進化を実現して下さることの一助となれば幸いです。皆さんの、一層のご活躍をお祈りしています
堀 新太郎
強い想いと志を持つプロフェッショナル
前回のスローンスクールのセッションの時の私の印象では、我々がスローンに在籍していたころ以上に柔軟で積極的な皆さんでした。ただ一方では、そういう皆さんのご質問の中で私が同時に感じたことは、そういう皆さんでも、既存の官庁、大手の日本企業等の組織の中で自分が納得できる仕事ができるかについては不安を抱えておられるということでした。実はその感覚は、我々の頃でも同じような感覚はありましたし、現在でも一見、よりリベラルで自由に見えるコンサルティング会社やファンド等の組織でも似たようなことが発生しています。事実、私の元同僚や後輩の中でも「自分が所属しているファームについてぶつぶつ言いながら定年まで勤めたもの」もかなりいましたし、逆に「それに見切りをつけてさっさと転職したもの」もいました。無論、プロ組織の「up or out」のルールに従って転職を余儀なくされたものがマジョリティーであったのが実態だったのは言うまでもありませんが、より能動的なプロの人材でも組織が大きくなると大なり小なり大組織が持つ属性がindependenceを重視する個人が成長する障害になることが多いのが現実です。逆にグローバルなプロの組織にも色々問題がありますが、そういった組織の方が自社の価値観や方針に合わずに付加価値を出せない人間には容赦なく厳しいものですので、日本のようにぶつぶつ言いながら何となく流して居残れる確率はそれほど高くありません。
私も色々な企業に所属していましたしグローバルな企業や大手の日本企業のクライアントはたくさんありましたが、そういう中で私が一貫して守ってきたプリンシプルとして、「自分が所属する、乃至はサポートする組織に大きな問題があると感じた時には、次の三つの対応しかない」と考え常に実行してきました。その三つとは、①自分が信じる方向をトップや組織に直言して、進化を遂げてもらえるよう努力する。②それが全社的には難しければ、自分が納得して仕事ができ、自分のraison d’etreを感じられる領域を作り、それで結果を出し周囲に自分が守りたいprincipleや仕事のやり方を認めさせる。③それがいずれもだめであれば即辞める と言うもので、私の辞書にはグダグダ文句を言いながら組織に長居するというオプションはありませんでした。例えば私が中小企業の再建後に29歳で再就職した時のマッキンゼーも、私が再就職して間もなくその当時の事務所の考え方と自分のprofessionalismに対する考え方の違いがかなりあったので、かなり率直な議論をしました。ただ、それと並行して復帰後草々30歳の時にマッキンゼーの大阪事務所を開設し、そこで結果を出し3年間ほど事務所を担当していました。つまりこれは前述の②のアプローチでした。ただしその後、より日本全体のマネジメントも見るようになると、この辺の考え方の違いを解くことが不可能だという結論になり、⓷、つまり独立して事務所を開くことを選択しました。ちなみに、退職時の東京事務所と大阪事務所のレベニューほぼ同じと極めて順調でしたが、それ以上に自分が守りたいprincipleの方が重要だと判断して退職した次第でした。
クライアントワークの時にも、私は一貫してクライアントのトップに厳しいことでも率直にお話ししてその方向にガイドするというprincipleを守ってきました。これは言うべくして結構難しいことのようですが、後で申しあげますように、その方針でご提案した内容がその通りにクライアントに実施されなかったことは一部ありましたが、そのprincipleに従って率直なお話をしてクライアントを失ったことは、記憶の限りありませんでした。
こうした自分の経験に基づきますと、皆さん、特にコンフリクトを避けがちな日本人が考えるほど、①、や②に挑戦すること、即ち周囲や自分の進化にチャレンジすることのハードルは高くないという自分の実体験もあり、それを多くの日本人ができていないのは“自縄自縛”の可能性が大きいということをご理解頂きたいと言うのが、今回皆さんに最初にお伝えしたかったことでした。こう申し上げると、「今の世界や日本は、75歳のお前が若かった頃とは違い、もっと複雑だ」という反論が出そうですが、ベビーブーマーの最盛期で最も大学受験者数が多かった年に大学受験した私から言わせていただければ、その当時は官僚や大手企業のサラリーマンが大手を振って歩くことが圧倒的多数で、Japan as number one 全盛と言う環境の中で、異端者の道を選びprincipleを通そうとするハードルは、今以上に大きな束縛になった可能性があったという気もしています。
そういう中で、多くの日本人留学生が帰国後に転職をされる傾向はますます増えてきていると思いますし、転職自体を否定するわけではありません。むしろ、ぶつぶつ言いながら定年まで勤めあげることよりはきっぱりと転職することは良いとは思いますが、その前に是非考え、チャレンジして頂きたいのは、ご自分の会社で①,②にチャレンジすることは出来ないかと言うことと、「辞めたいということが動機なのか?」それとも「何かやりたいと強く思うことや、貫きたいprincipleや強い想いがあってその為に転職したいのか?」 をよく考えることです。それとともに、次のキャリアではどういう仕事にせよ、自分が創業するのでなければ、転職先で①,②にチャレンジする意志と準備があるのかをよく考えられることです。どこかの組織に所属して仕事をする状況において、全てが自分のprincipleに合う可能性はほとんどありません。従って、どこにいても①,②に積極的にチャレンジすることは必須条件ですし、それを回避し、ネガティブセレクションの結果会社を辞めることは、自分と社会の進化や付加価値創出につながらないリスクがあることも、よくご理解いただきたいと思っています。
実は先程話をしたある財界関係の委員会での私の発言は、まさにそれに関係した話でした。今回の委員会の話は、企業変革のために「事業のポートフォリ管理を促進する」と言うことと、「日本人以外のマネジメントが日本のマネジメントに参画することのメリット」でした。その一連の議論の中で私が申し上げたことは、「日本の企業におけるポートフォリオマネジメントが進まないことも、日本人の多くのマネジメントが現在の環境下で必ずしも機能しなくなっているのも、一つの点で共通の原因があると思っている。それは今の日本の国や、日本企業、日本人が、心からやりたいと思う願望が強く持てていないことだ。最近の政府の方針を見ても、マスコミや評論家の話を聞いてもトップの方針を見ても、日本人が燃えて自分もそれに取り組みたいという気持ちを強く持てるような印象はあまりないのが現実ではないか。そういう中で今の日本人が強い願望やモティベーション、やりたいことが明確に持てずにいる状態だと思う。」
一方、ポートフォリオマネジメントの基本は、「企業が取り組みたいテーマや投資したい課題や事業がたくさんあり、それに対して人金物と言うリソースに成約がある。その資源を捻出するために、既存の事業の中でグループ内に留めておくことが双方のメリットになりにくい事業をよりシナジーが見込める先に譲渡する」と言うのが本質だと思っている。そういう意味では多くの日本企業は、そこまで大きな積極的に展開し投資を要す事業や強い願望を持つシーズを持っていない企業が多いので、人金物の不足も起きていない中で事業をカーブアウトして売却するというモティベーションが強くならないのが実態だ」「日本人のマネジメントについても、似たような現象がある。日本人のマネジメントは、必ずしもその能力がないので外人の優れたマネジメントを入れるべきだということでもないような気がする。もし現状でその根本的違いがあるとすれば、外人の積極的で優秀なマネジメントに比して、日本のマネジメントは概して“強い願望や企業としてやりたいこと、やるべきと信じることが余り強くない”方が多い。一方今の日本企業はより明確で強い願望と計画をもって進化させていかなければならないのが実態なので、そういうタスクでは今の多くの日本人マネジメントに欠けている要素があることがリーダーシップの課題ではないか?」「最近の日本企業で、社外取締役がもっと積極的に提案したり、中には経営企画的役割を果たしたりすべだきと言う議論があるが、これも社内のマネジメントが情熱をもってやりたい、自社が取り組むべきだと思うテーマ、イノベーションのテーマが山積みしている状態であれば、事業のことを知らない社外取締役がアイディアを出すことはその役割ではなく、そうした社内が考える思い切った施策のやり方やリスク、課題等を冷静に検討して意見を述べることが社外取締役の役割であり、そうであれば社外の取締役の機能も発揮されやすい。一方、その逆に会社のマネジメントがそこまでの強い想いや取り組みたいテーマがない中で、事業のことをそこまで知らない社外ボードがアイディアを出して貢献できるほど、マネジメントの課題は簡単ではないと思う。これ等の一見無関係に見える日本企業の二つの課題を見ても、今の日本の企業やマネジメントの課題が、自らが取り組みたい課題や情熱をかけるイニシアティブやそれを追求する強い意志が欠けていることであり、日本が進化/発展しない最大の原因なのではないか。」と言うような趣旨のことをお話しした次第です。
「自社が、そして自分が情熱をもって強くやりたいこと、取り組むべきだと思うテーマが余りない」という今の日本と言う国や、日本企業、日本人の状況には様々な状況証拠があります。国や行政、企業を見ても、バブル崩壊以降の日本の目指す方向やキーワードの殆どは、欧米のスローガンの後追いです。最近の国や産業をあげての強化分野やテーマも、ほとんど欧米の後追いで、それも追い越し追い越せる目途もない中で上げているものばかりです。purpose やmissionは拝金主義、自己利益の最大化が行きすぎた欧米の状況の歯止めの言葉の性格がありますが、今の日本にとっては抽象的で具体性に結びつく、つまり具体的なパッションとチャレンジに結びつくスローガンとはなりにくい気がしています。バブルの崩壊後に多くの日本企業が採用した欧米式の人事制度は必ずしも日本が向かうべき進化の方向を示しているわけではなく、より精緻な人事考課という形式主義が助長され、上司と部下とが互いに切磋琢磨するという伝統も逆に薄らいだ懸念もあります。そうであればもっとフラットで階層が無い組織運営になっていれば良いのですが、そこだけは相変わらず閉塞感がある階段構造が残っています。
企業の方もポートフォリオマネジメント以前に、大きな内部留保を持っている企業がたくさんありますが、その結果自社株買いで株主還元をすることばかりで、その内部留保をより積極的な投資や事業のために使う情熱も余り感じられず、あるとすれば高い価格で買収するM&Aぐらいです。私はかねてから「内部留保を自社株買いの形で株主に還元するのは、経営者の無策さと株主からお預かりしている資金を効果的に活用できていない証ととるべきだ」と主張してきました。現に高度成長期の日本は、積極的に事業拡大を図るために、グローバル企業の中でも最もアグレッシブにdebt financingを実施してきました。
既存事業や既存組織からの人材の余剰についても、それ以上に発展しチャレンジすべき“芽”を持っていればそこへの移動が可能になるはずです。現在は政府も、行政も、企業も、DXで枯渇している人材をリスキリングで促成栽培することばかり考えています。こうした対症療法的で近視眼的な対応では、今の技術や事業モデルの進化の度合いとスピードを想定すると、いずれまた別のリスキリングが必要になると思います。つまりスーパー店員が余剰になったら外食、外食が飽和状態になったらウーバーというような、狭義の専門技術労働者を促成栽培するよりは、自らが進化し付加価値を上げる意欲と思考力、応用力があるsuper generalistを育成することの方に力を入れるというイニシアティブが必要だと思いますが、それには、政官財ともに取り組んでいない状況です。
そういうことが日本人にも伝染する結果、今の日本人は勉強もしない、モティベーションも弱い、期待感も少ない、強い願望も向上心もない、幸福感も低い国民になり始めています。これは今の政府や行政の方針、マスコミや企業が、悪い意味でone voice状態になって、ほとんど希望も日本らしさも感じられない状況と、グローバルな国やプレイヤーが、良しにつけ悪しきにつけ目立った変化の動きをしているのを見ると、日本の若手に「情熱を持て」と言うことのハードルが高いのにも理解はできます。
自己責任意識、強い志と想いを持ったプロフェッショナルの社会へ
以上のような状況が今の日本で組織人が置かれた環境ではありますが、皆さんのような選ばれた人たちには、少なくとも「強い自己責任意識と、自分の明確なPrincipleを持ち、何かの情熱に基づいて進化に挑戦し、それの限界が直面したら創意工夫して打開策を考えてチャレンジする」という方向で動ける“チェレンジャー”マインドを持ったプロフェッショナルになって頂きたいと思っています。
その理由の一つは、現在の様々な技術や情報の進化やその結果としての陳腐化の加速は、「組織と社員が相互依存意識を持ち,同化しながらルーティンワークをこなして行く」というここ半世紀余りの日本の社会モデルから、「自己責任と強い志、想いを持った個人が組織として集まり付加価値創造と進化の相乗効果を生む」と言う社会への進化が始まっているからです。組織論から見ても、「歴史や過去の実績、規模といった組織に同化型のエリートが集まるというモデル」から、「付加価値創造型の個人が相乗効果を上げるために最適なモデルを提供した組織が栄える」と言う組織モデルへの大きな転換点に来ているからです。逆に言えば、皆さんにとって重要なことは、サラリーマンと企業家の境は限りなく低くなり、組織に居ようと自分で創業していようと、積極的に進化と付加価値の創出を目指そうというのであれば、それなりに「“日本の所謂サラリーマン意識”から、自らが進化の先陣を切れるマインドと意志を目覚めさせられるか?」と言うことにチャレンジされることになるということだと思います。
日本以外の欧米や成長地域での若手は、子供の頃から社会や、社会で生きていく厳しさを、身をもって体感しています。いくらエリートで良い就職をしても、成果が出なければアッという内に自分のポストも失うことは分かっています。その意味では、自己責任や、リスクを取るマインドは、若い時からある程度、意識に染みついていると思います。
それに対して、日本のかつての、「終身雇用と会社への帰属と勤務(所属ではなく)、その中で与えられた自分の役割を勤勉に努力する」と言う伝統的モデルはかなり変化してきています。ただ、90年代のバブルの崩壊以降、かなり異なった社会には変化したとはいえ、今でも組織と個人の相互依存意識はまだかなり残っています。つまりここ40年近くで日本人の意識、特に若手の日本人は「終身雇用・終身帰属型のサラリーマン」と言うモデルから離れ始めていますが、帰属型の仕事を離れた時に必要となる「自己選択、自己責任が原則の“プロフェッショナルな生き方“」の本質はまだ理解できていない気がしています。
一方この議論で一番気を付けるべきなのは、長い歴史の中での組織モデルの変化を理解しておくことです。日本の高度成長が達成できていた時期は、産業革命以降の「支配と被支配型、トップダウン・階層組織型」の欧米モデルから、日本が戦後から1980年代時代までに確立した「国民の高い職業倫理と優れた知的能力、向上心と勤勉さに基づく企業と個人の相互信頼・相互努力、和とチームワーク、その結果としての組織への帰属と終身雇用」に移行した時でした。その時のグローバルな環境の中では、そのモデルはかなり有効な社会モデルだったと思います。確かに、こと製造業とライン業務(営業や技術等も含むライン業務)中心という当時の経済の基幹産業においては日本に遅れを取った欧米でしたが、そういう中で、一部のインテリ層のエリートの中で「高い倫理観や価値観を持った自己選択と自己責任に基づく優れたプロフェッショナル」と言う層が活躍してきた時期がありました。Best and brightestと言う層が、政治や、特定のプロフェッショナルサービスファームや金融においてかなりの影響力を持った状況が数十年間にわたって続いていたという事実は余り正しく認識されていなかったと思います。この時期の米国は、世界の守護神としての意識と、かなり優れたブレーンや幹部が高い倫理に基づいてリードをしてきていた時代だったと思います。この時代のこのセグメントの欧米の「高い倫理観や価値観を持った自己選択と自己責任に基づく優れたプロフェッショナル」と言う層が大衆にまで浸透した形が、本来の「サラリーマン、従属意識」から離脱した日本の目標であるべきだというのが、私のイメージです。
ただ、不幸にしてその後40年近くでグローバル社会が大きく急速に変化し、技術や競合や経済構造も大きく変わりしました。その変化はかなり「良い進化」につながるもが多かった半面、「自己選択・自己責任」が極端に変化し、「自己利益」「自国(の中でも自分に都合が良い一部の国民)利益中心」の追求が行きすぎる中で、過度の金融経済の影響力の増大と拝金主義の傾向が大幅に増加してしまってきました。更にそういう中で、情報のオープン化やグローバルの多種の価値観が急速に混在し、モデルともなるべき大国の利己主義や国際法に違反する行為もまかり通るという状況になった結果、倫理観や善悪の判断、善人と悪人の区別も曖昧になってきています。その中で、現在の「高い倫理観や価値観を持った自己選択と自己責任に基づく優れたプロフェッショナル」と言う層も影響を受けたとともに、「過度の自己利益を最大化する個人やリーダー」が富も独占し、「黒でも白でも、ネズミを取った猫が良い猫」と言うのが今日の世界情勢になってしまっています。
恐らくこうした異常な状況は一定期間後に軌道修正されるか、世界が生存の危機に瀕して結果的に軌道修正しか選択の余地がなくなるかになると思いますが、その時のモデルは「新たなテクノロジーや世界のガバナンスの中で、新しい倫理観や価値観を持った、自己選択と自己責任に基づく優れたプロフェッショナル」と言う層が率いる社会になるのではないかと言うのが、私の希望的観測です。最終的に目指すべきプロフェッショナルの像も色々変化していると思いますが、過去の歴史や個人的経験から推察した「自己選択と自己責任に基づく優れたプロフェッショナル像」について、次にコメントしていこうと考えています。
日本における「高い倫理観や価値観を持った自己選択と自己責任に基づく優れたプロフェッショナル」社会への変化
おそらくいずれ世界が向かわざるを得ない「高い倫理観や価値観を持った自己選択と自己責任に基づく優れたプロフェッショナル」の世界は、バブル前の日本の価値観・倫理観の要素と、best and brightestのプロフェッショナルの要素を合わせ持ったものになると思いますが、実はこの共存はそう容易ではありません。
過去において、日本人でこういう仕事のプロフェッショナルのキャリアである程度の実績を残した人の多くは、かなり異端者や孤高の人が多かったのが現実です。それは「仕事のプロ」に必要な属性が、「人と和す」「チームワーク」「人と交わる」と言う、日本において組織メンバーに求められる属性と矛盾しうる要素があるからです。無論、この両者ができることはベストではありますが、人と和してチームで動くという中で、自分の強い意志とオーナーシップを持ち続けることに挑戦することの両立がかなり大変だという現実です。
更に、そういう日本の伝統的社会的風土の中でまだ社会的なコンセンサスにはなっていない「進化とそれについての付加価値創出、その為のイノベーション」を貫こうとするためには、かなりの意図的なマインドセットの切り替えが必要だと思います。しかしながら、今後のグローバルな環境を想定しますと、「組織と同化したサラリーマン」と言う概念は消滅し、「高い倫理観を持ち、自己責任と強い志しと想いを持ったプロフェッショナルが社会をリードする時代になる」と言うことだと思います。それを一匹狼でやるか、新たにスタートアップするか、それともそうした優れたプロによって構成された組織に所属するかの違いはあっても、そこで求められるプロフェッショナリズムは共通の成功要件になってくると思います。
その辺の社会的な変化、日本に求められる変化を考えながら、私自身がスローンの皆さんの為に何ができるかを考えて見ました。その結果、日本人の中でも自己責任を持つプロとして異端者の道をずっと歩いて来た自分が、これまでの50年間余りで心がけてきたことを具体的に例示することではないかと考えました。ただし、私はそもそも、人の物まねをすることも嫌いですし、自分の体験や考え方を人に押し付けることは良くないと考えています。その意味で、私が自分のことをお話しする時に意図することは、私を手本にして生きるということでは無く、そういう異端者のプロの話を参考材料としながら、皆様方ご自身が持っておられる潜在能力や自由度を過小評価する、“所謂自縄自縛現象”から脱するとともに、自分を客観的に分析して、自分に合ったやり方で日々皆様方ご自身も付加価値を創出されながら進化し、その結果社会の進化に貢献される個人、即ち自己責任意識を持ったプロとしてやっていく”自分流”を身に着けられることだと思っています。
そういう自分流の一つの事例として、私がプロとして、社会の異端者としてやってきたこと、その中でもこれからの日本のプロフェッショナル化する社会の中で重要だと思っていることを少し例示しておこうと考え、本稿を作成しました。ここでの私の例の多くは、組織人であっても、個人のプロであっても、又経営者であってもコンサルタントであっても共通の要素ではあると思いますが、この内容は、私が若いころに育った、戦略コンサルティングのプロの時代からの体験が中心になっていますので、多分にそのバイアスがあることは理解してお読みいただけると幸いです。
進化が加速し続ける社会におけるプロフェッショナルの要件
まず「自分を知り工夫する」という、プロとしての第一ステップのイメージをつかんで頂く例として、前回も少しお話しした私自身のことをお話ししておきます。
1. 自分を客観的に理解することが私の小さい時からの習慣でした・・・・既に皆さんにはお話ししましたように、皆に嫌われた小学校の経験に端を発して、自分の欠陥に直面してきた自分であり、しかも得手不得手が極端にある、“同調”が嫌い、丸暗記ができない、興味がないとやれないという欠陥者でした。その結果、私の高校時代の時間の大半はこれをどう克服するかの、創意工夫の始まりに割かれました。
2. 自分流のやり方を創意工夫して、人以上の結果を出すことが、結果的に自分の生き様だったようです・・・・
① 私立の一貫校での高校の推薦漏れぎりぎり、物理の通信簿の赤点。担任のシビアな反応。・・・・これがきっかけとなり、等比級数から微積分迄自分流で学び直して物理の公式を導き出すことで数学と物理の自己学習。嫌いな英語はペリーメイスンシリーズの日本語と英語を受験期間中に数十冊読む。英語の歌詞、FEN放送 Walter Cronkite等の論説を耳で聞く。・・・・その結果、高2の時は学友を課外時間で教える。理工学部の受験で、嫌いな化学は捨てて数学、物理、英語で何とか合格。
② 親の七光りや、ほぼ3代にわたり東大出身者ばかりの大企業のトップだったことへの対抗と「あんな風にはなれない」と感じた結果、就職は3社のグローバルコンサルティング会社の中で最も個性が強く、面倒見が悪かったマッキンゼーを選択。東京ではなくNYにコンサルタントで入社。AT&T、GE、Norton &Simon等に加えて日本企業の米国のトップを数社担当。二年後に中小企業の再建のため27歳でMcKを辞めて事業を再建した後に、29歳でMcK日本に再就職。大阪事務所を開設。McKでは、最初に辞める前には後輩であったプロたちの後塵を拝するポジションから再開し、再入社後4年で33歳の時にパートナー。パートナーを2年務めた後に、当時の事務所の経営方針が合わなかったMcKを35歳で辞めて独立、39歳でUCC上島珈琲の取締役副社長、二年で役割を終了して、頼まれて短期協力の約束でベイン東京に参画しました。
③ 短期の予定で参加したベインアンドカンパニーでしたが、非常に良いファームでありながら私が入社した直後に発覚したファーム全体と東京事務所の課題が山積していたこともあり、結果的に16年間の長居をすることになりました。そういう中で一番留意したことは、自分がそのプロ集団の中では最もベテランのプロフェショナルであったこともあり、自分がマンネリに陥り、陳腐化しながら居座ることがないように、常に新しいことにチャレンジすることを心掛けてきました。その自分自身のチャレンジを例示してみますと、ファーム自体と東京事務所のターンアラウンドから始まり、ファームで最初のHarvard Business Review への寄稿や本の出版。韓国事務所の設立と思い切った戦略的打ち手を行った結果、韓国での戦略コンサルティングでナンバーワンの地位の確立。日本と韓国を含む北アジアのリーダーシップ。ファームの実質的ボードに相当するワールドワイド・マネジメント・コミティーへの参画。日本事務所のリーダーシップの交代と会長職への就任。その後再度の支社長への復帰。プライベート・エクイティープラクティスの日本での開始。みずほ証券、NTTデーター、IBMとベインアンドカンパニーの共同出資による日本産業パートナーズの創業。そして再度の東京事務所の支社長職への復帰。短期間での再度のリーダーシップの移管と短期間のサポート。その後のベインキャピタルへの転職と、結果的にはほぼ2年毎に新しいチャレンジを行ってきたことになりました。その間のことをお話すれば長くなりますので割愛しますが、そのプロフェッショナルとしての仕事の間に。人がなかなか経験できないような稀有の体験や、危機を乗り越える多くの経験をさせて頂きました。
こういう背景の中でプロの世界で仕事をしてきた自分ですが、それを振り返ってみた時に、今後日本が向いて行かざるを得ない方向であるプロフェッショナルな人生を送られるであろう皆さんにとって重要だと思うことについて、上記1.2に引き続いてコメントさせて頂きます。
3.
自己選択と自分をのせるスキルは、次の4,5に述べる必須条件のもとになる最も重要な点だと思います。
ほとんどの仕事と業界における今後のグローバル競争、技術や事業モデル、サービス競争は、そのスピードと内容においてかなり熾烈になると思います。そういう中で、“義務としての仕事で努力する”というやり方で生き残れるほど甘い環境ではないと思います。皆さんがご自身で取り組まれる課題は、些細なことから大きなことまで含めてすべて“皆さん自身がやることを選択”し、自分がフルに関心を持って取り組み、その課題に自分をのせていくやり方を会得する必要があります。そして、事の軽重を問わず常に自分でやると決めたことにフルにコミットして最高の結果を出すということを習慣づけることが必要です。特に大事な留意点としては、“大事なことはコミットしてやり、そうでないことは手抜きをする”というやり方をすると、力を入れた自分が特別な自分で、それ以外のことに取り組んでいる時が普通の自分と言うことになります。そうしますと普通の自分が基準となって居ますので、手抜きをすることがベースになってしまい、大事なことは負担になるということになります。これに対して、自然な自分が“課題の軽重に限らず、何事につけてもフルにコミットして取り組む”という癖がつくと、それほどのストレスや負担なく、自然に脳と身体が動くようになります。
もう一つ重要なことは、自分で選んだことでも、誰かから依頼されたり予期せずに来たりした課題についても、「自分が、何らかの意義や興味を持って選択して決めた課題」に自らのマインドを転換できる習慣をつけることが重要です。逆に「それができないときは、引き受けることを断る」という明確な基準とそれを実行する勇気も必要です。
4.
自己のストレッチとフルポテンシャルは、3で結果的に自己選択した課題に対して、自分の持てる力、乃至は他から学ぶことや自らで夢中で考えることで、自分の期待以上の付加価値や進化が達成できるフルポテンシャルを追求することを習慣づけることだと思います。何事につけても、他の誰に比しても自分の最終目標が高い基準であることが、常にフルポテンシャルを発揮できる要件だと思います。その為にも、取り組んでいる課題が、誰かから言いつけられた仕事も含めて、全てを自分で選択した課題として行かないと、このフルポテンシャルは追及できません。
仕事についてよく言われる、“頑張る”、“努力する”、“work life
balance”と言うような言葉があります。これは、楽しみや私生活と、それを支えるための“義務としての仕事”の間に明確に線を引く概念です。ただ、今後の途上国を含めたスマートフォンの普及、SNSやインターネットを含めた情報格差の消滅と、グローバルな競争の激化と、それを前提にした先進国におけるプロフェッショナルな社会の到来を考えますと、“義務という意識”での仕事で十分な付加価値が出せる確率はかなり低くなると考えています。後述しますように、技術の飛躍的な発達の結果、特に先進国の多くの仕事が頭脳を使う仕事中心になると考えますと、ますます自分のモティベーションと自発的ドライブが不可欠になると考えます。
5. 私は、広義のビジネスに携わるプロフェッショナルにとってのこれからの使命はThought leadershipにあると考えています。ロボットやAIは人間の色々な能力を代替してくれると思いますが、そういう中で人間にとってそれらの代替技術と戦っていく武器は、humanity, art, emotion と、thought leadershipの能力だと思っています。これを言うと気障に聞こえてしまいますが、私にとって考えること自体が楽しく自分の最大の趣味だと思っています。自分で日々考え続け、日々学び、日々付加価値を創出すことは、本当に楽しい趣味と実益を兼ねた趣味です・・・・自分が今日は何で進化したか、何の付加価値を生んだかをかなり意識して生きることと、そのキーワードを随時メモしておく等の習慣により、自分自身の日々の進化とthought leadershipへの貢献への実感が体感できます。
6. 夢中になること:つまり、頭脳労働がメインになるプロフェッショナル達にとっては、メインの仕事である“考えること”を本当に楽しみ、義務としての労働ではなく、自分が楽しみを得る活動として夢中になる対象にできないと、情報格差が消滅した今日の進化のグローバル競争の中で、付加価値を出し続けることは出来ないと考えています。
7. 謙虚で、学び上手になること:相手が偉いか偉くないかや、権威者か否か、学歴等ではなく、どんな人からでも人の情報や意見から謙虚に学び、参考にできることは極めて重要です。自分が分かっているとか、自分の既成概念に自信を持ち過ぎることや傲慢さは、学ぶ上での大きなマイナスです。ただし、そういう情報やヒントについては、単にそれをそのまま記憶するのではなく、自分のアングルと視点で考え、新しい考えを加えて独自の見解を作る楽しさを味合うことが極めて重要です。最近某商社のトップが「日本人の謙虚さが日本人のグローバルリーダーシップの障害になる」とのコメントをされていますが、それは対外交渉や自己が言うべきことを臆せずに主張することの考え方としては正しいと思います。ただ、こと学ぶということになると、自分の知見や今の能力に傲慢であると学ぶ歩留まりは低くなることは事実です。従って謙虚に学び、その結果できた自己の考え方は臆せずに主張する、と言うことが必要だと思います。
8.
進化と退化:ここ半世紀は技術や事業モデル等の進化が加速度的に進みましたが、この傾向は今後も続いていくと思います。そういう中では、過去の知見、常識等の陳腐化もかなり進みます。つまり、昨日までのことに安住していることは、退化を意味する状況になりつつあります。
そういう中で、会社のリーダーを含むプロフェッショナルの役割自身も、従来多かった「現状を前提としたエクゼキューション、交通整理や改善、過去の蓄積によるノウハウの切り売り」ではなく、進化のための提言やサポートを行うことが中心になります。そして、その為にプロフェショナル自身も日々進化し付加価値を創出することが求められます。
9.
プラスとマイナスは表裏一体:私が、プロフェッショナルとしての経験を通じて学んだことは、「ほとんどの物事にはプラスとマイナスが表裏一体となっている」ということです。良いことばかりのことや、悪いことばかりのことはほとんどないというのが経験則です。
その理由の一つは、物事を進化させる付加価値を付けることの多くは、その反動としての副作用や犠牲になることがあるという科学的理由と、それを実施した人間の性として、良い経験の時には糠喜びをして良い面ばかりを見て自信過剰になり、その反動やリスク、作用に対する反作用やマイナス面への配慮がおろそかになりがちだからです。逆に、悪い経験をしている時には悲観的になり過度に後ろ向きになりがちですが、実は悪い体験には様々な学びや将来の糧になる学びがたくさんあります。この学びは仕事自体への学びは無論のことありますが、さらに失敗することをプラスに転じることができた人間は、謙虚さと、人の痛みが分かり人への思いやりが出てくるので、成功に良い気になって傲慢になっている人間に比して大きな資産を抱えることができます。
この点について、私がいつも若手のプロにアドバイスしてきたことは「優れたプロフェッショナルとしての要件は、冷静さと自己のエモーションのコントロールにある。その為には、ハイ(成功した時)になった時の喜びや、自信過剰になることをコントロールすることが重要だ」と言うことでした。その理由は色々ありますが「成功した時に欣喜雀躍とし過ぎることは、傲慢さと自信過剰を招き、謙虚にまだ不足していることやそこからの学びを失うリスクが有る。更に、ハイになり過ぎた結果、ロー(失敗したり成功が続かなくなった時)になった時の落ち込みの落差が大きくなり、失敗から前向きに学ぶこともできなくなる。」と言うものでした。
前述のように、プラスとマイナスが表裏一体と言うことは、ソフト(人間の癖や、人間関係)の様子だけではなく、ハード(技術や性能、作用反作用)の面でも同じ気がします。技術が進化すればするほど、その結果の事故や犯罪、機能的な反作用等が発生することは、最近の技術の進化には必ずついて回る問題です。
その意味で、真のプロフェッショナルは、自分の過度のエモーションの振れ幅がおこらないように“ハイの時”をコントロールするとともに、物事のプラスとマイナスの両面を見ながら、そのメリットを最大化し、デメリットを最小化したり、デメリットをプラスに活用する(副作用を利用した対策)ことを考えるという視点を持つことが重要です。
10.
プロとしての厳しさと自己責任は、3,4が充足されていないと、本当の意味で自分の高い基準を設定して、それを必達する自己責任を感じ、実践することはできません。社会全体を見ても、これまで当たり前のように与えられていた様々な既得権や保護は急速になくなって来ています。その始まりは90年代初期のバブルの崩壊の結果の大手企業のリストラが始まりだったと思いますが、その後皆さんが気付かないうちに、学歴、経歴、社歴、男性優位、企業力、等々の既得権効果も大幅に減りつつあります。政府や行政が人気取りのために追加している刹那的な補助の施策の意味や永続性もほとんど期待できません。
今後の皆さんの盛衰は、ひとえにプロフェッショナルな皆さん自身が所属する組織や個人に対して、皆さんやそのチームが創出し続ける付加価値や進化への貢献にかかっています。そういう意味での自己責任社会は、目の前に迫ってきています。
11.
権利は獲得するもの。既得権、過去の栄光への依存は無意味。このプロの自己責任の問題は、結果に対する責任だけではなく、プロが自分でやりたい仕事、やるべき仕事も、誰かから与えられることでも既得権があるものでもなく、自分の能力と成果で獲得しないと得られないということを自覚することです。特に、高度成長期以降のこれまでの日本社会では、高学歴、男性,一流会社のエリート、その会社での地位、そういう中でつけたある程度の知見やトラックレコード等で暗黙の既得権が与えられた社会でした。欧米、特に国の歴史が短く、皆が移民の米国社会では、ある種のエリートはいますが日本ほどその既得権の効力や永続性は長続きしない社会です。特に90年代以降のグローバル社会に起きている技術革新の変化とコモディティー化の加速や、成功者、成功企業の栄枯盛衰の極端な変化は、過去の何かの経歴や栄光、知見やその結果の既得権の価値の大幅な退化を加速させています。
つまり、その時々の人間が持つ権利はその時までにその人間が築いて来た知見や実績や担当する課題とのマッチングにより獲得されるものであり、そこで獲得した地位や権利は、獲得した時点から始まる本人による継続的な付加価値創造への貢献と進化によってのみ担保されるものです。
12. Principleや高い倫理観は、現時点での世界ではあまり重視されなくなっていますが、おそらく利己主義、自国の利害中心主義、拝金主義はいずれ限界に達し、継続不可能になると思います。その時点で再度重視されるのは、新時代、新技術を前提とした正誤の判断や、物事を判断したり、取捨選択したりするためのprinciple(規範)や新時代を背景とした高い倫理観を持つプロフェッショナルになるはずです。
Principleと言う言葉は、マーガレット サッチャー首相が退任後のNHKのインタビューで、「政治家にとって最も重要なことは」と聞かれた時に、即座に「Principle」と答えたことが印象深かったのを覚えています。つまり物事を判断する時、選択する時にそれに合っているか否かを判定する基本的方針、価値観、判断基準を持って、それに基づいて行動しているかが政治家の基本だと言うことだと思います。私もかねてから自分のPrincipleを意識して常に考えていますし、新しいことや様々な見解があった時に、自分のPrincipleに従って判断することを心掛けています。この辺が、倫理観、正しい価値観、善悪等を含めた判断力の重要性だと思っています。世の中はなかなかprinciple通りでは対応できないことがかなりありますが、大事なことはそういう妥協をやむを得ずするときに、それがどのprincipleに反して行った妥協で、どうやったらその妥協を正しい方向に軌道修正していくことができるかも、常に意識することだと思います。
13.
悪貨と良貨:ここ半世紀にわたる広義の金融産業の影響力の大幅な増加と、技術と経営モデルの劇的な進化と言う変化かもたらすメリットの中で。最も大きなデメリットは、善悪の判断が曖昧になり、本来悪のものが善と認識される幅が大幅に増加されたことだと思います。
従ってこういう社会におけるプロフェッショナルにとっての最も重要なことの一つは、善悪の判断、特に金融経済が主流になりつつある昨今の状況の中で、悪貨と良貨の区別を峻別できる倫理観と判断力を持つことだと思います。
14.
Independence:これは組織に属していようと独立していようと、プロフェッショナルの人材の重要概念です。プロの仕事は真実や事実を正しく認識し、分析し、それに対する解決策を創出することです。顧客(クライアント、上司)の意見を謙虚に聞いたり、学んだりすることも重要です。ただし、昨今の環境や技術の激変が今後も継続することを考えると、これからのプロフェッショナルの役割は、顧客(クライアント、上司)が進化することへの付加価値のサービスを行うことの比重がかなり大きくなります。これは組織の中でも同じです。私がBスクールの皆さんに、優れたプロフェッショナルになることが必須条件だと申し上げているのは、皆さんが出す付加価値は、上司やトップの方々のこれまでの経験則の延長線上で改善(do
better)することよりも、それを更に進化させたり、異なった方向に舵を切ったりすることへの貢献になるということです。
その為に重要なのは、皆さん方プロフェッショナルが、組織や上司、トップに”従属”すること(和を持って貴と成す)では無く、ご自分の見解をしっかりもってトップが皆さんの“異見”を飲みやすい形で説得するという(和して同ぜず)のスタンスで仕事ができることです。これがプロフェッショナルな世界でのindependenceです。
15. 「クライアントのトップ(相手)に会うときは、その服装やスタイルに合わせ、相手が抵抗感を感じるような話し方や振る舞いは避けろ:この言葉は私がマッキンゼーのニューヨーク事務所の入った直後に、当時まだマッキンゼーの中興の祖でありゴッドファーザーであったMarvin Bowerから直接教わったことの一つです。これはごく当たり前のセールスマンの心得のように聞こえますが、マーヴィンの真意は、①「コンサルタント(若手)がトップと対峙する時には、ただでさ“生意気な若造”と言う目で見られているので、それに輪をかけて見かけや風体で相手が抵抗感を感じるようなつまらない心理的摩擦は避けろ」 ということと、更に②「コンサルテントの本分は、時としてクライアントのトップの考え方と違うことを提言し、軌道修正して頂くことにある。その為にプロとして直言することを避けてはいけない。“だからこそ、それ以外の相手が心理的抵抗感を持つ要素を極力減らすことがプロとしての心得だ」 と言うことでした。つまり、「表面的なことを相手に合わせるということは、相手に媚を売ることでは無く、independenceを持ち、相手の進化に貢献する付加価値がある提言をすることへの阻害要因を最小化せよ」という教えでした。つまり、Marvin Bowerの教えは、「プロフェッショナルとして、どんな相手に対しても言うべきことは言う・・・・だからこそ、相手への愛、ケア、飲みやすさ、細かいところは相手に合わせることが重要なのであり、相手に媚びることではない。」と言い換えることができると思います。
16.
Client Interest first. Profit, follows.:この二つの言葉も、前述のMarvin
Bowerの言葉ですが、「自社、自己の利害よりもクライアントの利害を優先せよ。自己・自社の利益は、自己・自社のインタレストを追求した結果もたらされるではなく、クライアント(顧客)のインタレストを追求した結果として持たされるものだ」という教えです。この半世紀以前までの世界では一見あたり前に聞こえる価値観は、ここ半世紀近くの世界では、当たり前では無くなってきています。
その理由は色々あります。一つは金融経済の過度の台頭と、仮想通貨、巨大ファンドの登場等の結果、「顧客や社会への貢献等の付加価値が無くても、最終的には社会的にマイナスの結果になるものでも、上手くやった人間が、ババ抜きでババを引いた人間から搾取する」ということが当たり前になってきている社会の実態があります。もう一つの実態は、ネット、SNS等の技術の急速な進化と、法的な整備が後手に回っている結果、善悪の区別の中で、「悪が善を大きく侵略できるようになった」こと。「他国や他人の利益を侵害しても、自国、自己の利益の優先が許容されることが社会で当たり前になっている結果、他人や社会、顧客の利益を犠牲にしても自己の利益の追求が許される」ということが日常化して来ています。特に技術の加速度的進化は、その真価を先取りしてそれを自己の利益の追求のために悪用する人間の方が先行し、それを取り締る国家や法律、ガバナンスが遅れるという繰り返しの結果、本来の悪が善の延長として許容され、その結果社会や顧客のインタレストに反しても、自社や自己の利益が稼げることを許容する世の中を作り上げています。
SNSによるグローバルな情報の拡散と、その結果倫理観や基本的教養が着く前の国民が大多数を占める今日のグローバルな人たちの中に、誤った倫理観と価値観が蔓延し始めています。その中で世界に大きな影響を与えてきた大国の、自国優先主義、個人の自己利益最優先主義がそれを加速化しています。
その風は、もともと社会倫理や公序良俗の基準が高かったはずの日本の国家、政治,官僚、大手企業にも大きな影響を与え、様々な社会や顧客のインタレストに反する行為が次々と顕在化してきています。
そういう中で、あえて新しい社会や技術を前提とした正しい倫理観の醸成と、Client Interest first. Profit,
follows.に基づくプロフェッショナルの育成を図っていくことは極めて重要になると考えます。
17.
True north:私が1991年から16年間所属したベインアンドカンパニーで大切にしている True North と言う言葉があります。これは、本当の地磁気の北である真北(True North)と磁石が示す北の違いを語っている言葉ですが、要はプロフェッショナルとしての役割は、様々な雑音である磁気の影響を受けず、常に正しい北を目指し、北を目指すことに貢献することがプロフェッショナルの真の役割だという考え方で、本質的には12で述べた、プロフェッショナルとしての倫理感の重要性を説いています。
18.
進化の方法と組織の対応能力、風土や価値観: 同業者の中でも、特定の企業にとっての進化の方向や方法はかなり異なってきます。その理由は技術やノウハウの違い等所謂hardの違いもありますが、より大きな影響を与えるのは、組織の対応能力、風土や価値観、得手不得手と言う、所謂softの要素の違いによるものです。古い話になりますが、90年前後にパナソニックがMCA(現在のユニバーサルスタジオ)を買収し、ソニーはコロンビアを買収しました。いずれも考えるビジョンや進化の遠望は同じだったと思いますし、両社ともに事業の統合(Integration)には苦労しましたが、一方は事業を売却し、一方はグループの柱になっています。この両者の結果の違いやその理由、もっとできることは無かったのか等はきちんとした検討を要しますのでそれは割愛しますが、その大きな違いの中で、前述の組織のソフト面での違いが、取った同じアクションに大きな違いを出す結果となっていることは事実だと思います。
19.
At cause, at effect::私が90年代に16年在籍したベインアンドカンパニーの中では、色々な状況で「 at effectになるな、at
causeになれ」ということを、盛んに話してきました。これは物事が変化・進化する時に、その進化を起こす立場にある側がat cause、進化に影響され受け身で対応する側がat
effectです。つまり「物事が進化する時に、その進化を起こす側になれ、受け身で影響を受ける側には回るな」と言う、プロフェッショナルとしての教えです。
21世紀に入ってからの企業を取り巻く様々な環境、技術、地政学的変化の大きさとスピードの重要性の中で、この「be at cause」の教えはますます重要になっています。
20.
謙虚さとオープンマインドによる学びと創意工夫:先に述べましたように、傲慢な人は人から学ぶことは不得手です。それは①自分自身の知見への過信が、自分からの発信や見解を主張することが先行し、常に誰からでも学ぶという姿勢を阻害してしまうこと。②傲慢さは上下意識に直結され、自分よりも下だとか、本社と現場への差別的偏見につながり学びの機会を逸することにつながるとともに、自分と同格以上だと認識するメンバーの意見に影響を受けやすいリスクが有ること。③同様な理由で、フィーが高いコンサルや外部の権威者の意見を過大評価し、自分の下の組織メンバーの声や意見を過小評価するリスクが有ること④傲慢な耳で聞く結果、聞いたことを否定することが先行し、学び進化させるというマインドや、より高みを目指して創意工夫する意識が弱くなること。等が要因です。
私が時々言う言葉に、「自信・過信・誤信」と言うものがあります。自身が、自分自身や自分の判断に自信があり過ぎるために、過信を生み、その結果誤信につながるという意味です。本当の意味で自信がある人間は、他人の意見や自分と違った見解、情報を理解することに積極的で、自分の見解と違う意見にはオープンマインデッドです。
私がプロフェッショナルの若手に最初に教えることは、クライアント組織のトップから現場に至る階層組織の方々と接する時には、「どの階層の方とも常に同じ高さの目線で接するように」と言うことです。どの階層の方とも同じ目線で対等に接することができなければ、真の情報や学びは得られません。同様にトップと接する時にも、臆せずにトップと同じ目線で考え率直に意見を具申することです。この方針は、私が25歳でマッキンゼーのコンサルタントの時から今に至るまで厳守して来たもので、謙虚で同じ目線で接することで自分よりもはるかに年上のトップも耳障りな厳しい意見でも耳を傾けて頂くけて頂けるというのが実感ですし、現場の最下級の職人さんからも、貴重な意見を学ぶことができる秘訣だと思います。
21. 評論家にはなるな:評論家を総称して断定することは間違いですが、“自称評論家”の方々の中で、「物事のあら捜しをして、批判し、解決策は示さない」という方が多いのは事実だと思います。私から見ると、本当に理解もせず、自分ができない言い訳の単なる批判や、あら捜しは無意味だと考えています・・・・例えば、私はかなり国粋主義者だと自認していますが、その中でも米国、金融業等の先進性の良い点は学び、理解して、その中で自分がグローバルな仲間と同等以上の力を出す実績に基づいて、初めて課題の指摘や改善提案ができる資格があると考えて実践する努力をしてきました・・・・その自分にとっては、やりもしない、相手にリスペクトされない状況での批判は単なる負け犬の遠吠えだと考えてきました。
22.
理解し、記憶することの為にメモをとる:プロフェショナルとしてのやり方は色々個人差がありますので、これはあくまでも私個人のやり方ですが、私は色々な話を聞いたり、新しい体験をする時にメモをすることを習慣づけています。ただし、これまでの50年以上のプロのキャリアの中で、メモを見直すことは殆どありません。と言うのは、私にとってのメモは話を聞きながら自分が学ぶことの促進と、その学びによる自分が持っている課題へのヒントを理解し、それを記憶するための方法だからです。ですから、そこで発言されたことの議事録や一言一句書き取るようなメモは取りませんし、それに集中していたらそこから学べません。
逆に言えば、そこで聞いたことから学び、自分が求めていることへのヒントとして聞こうとする姿勢こそが、自分の考え方の進化と、それに助けられた新しい付加価値をもたらしてくれることが重要であり、そういうことを脳に刻み付けておくためにメモを取っていますので、メモを見直す必要がほとんどないのです。
23.
本質を見る目:プロフェッショナルとして、物事の本質を理解する目を常に持つことは極めて重要です。この一見当たり前のことは「言うは易く、行うは難し」です。色々な企業の問題、間違い、非効率、コスト、不振、低迷、特にそれが繰り返し起こっていることの多くは、実はその課題の本質を理解していなかったから発生していることがほとんどと言っても過言ではありません。逆に言えば、本質を見る目を身に就ければ、駄目な事業が極めて良い事業になり、良いと思っていた事業が実は泥沼が続く事業であることはしばしばあります。
本質を見る目をどうつけるかについてはかなりの説明になりますのでここでは割愛しますが、本質を見つけられない原因となる因子をリストしてみれば本質を見るための要件が見えてくるかもしれませんので、「本質を見つけられない要因」を少し例示して見ましょう。・・・・①通説、慣行②拙速した考えと思い込み③ベテランの言葉の過信④従来からの説の盲点。固定概念⑤理解よりも、批判、欠点、評論家的視点のあら捜しの性癖⑥できる方法よりも、できない理由を探す癖⑦問題への対症療法的対応⑧原理、分析、要素分解の労を厭って、解決策に走る⑨功を焦る⑩視野の狭窄⑪関連要素からの考察不足⑫義務としての仕事、思考を楽しめない⑬発見の喜びを知らない⑭どこかに良い解決方法があるはずだ、という前向きの指向ができない⑮完璧な解決方法を見つけるまでの執念の不足。⑯廃止、代替、発想転換、新たなる結合、逆転の発想、マイナス要素の有効利用等の発想の経験不足⑰「現代はほぼ完成に近く、それ以上のやり方は無い」という悲観的視点。⑱自己の業界や技術の使われ方が全てであるという思い込みにより、基本原理やその応用にも見方を変えれば多くの多様性があり、従来と異なったものとの複合がおこれば、これまでと違ったイノベーションになるという可能性が見いだせない。
本質を見る具体的な方法やスキルとしては、上記の⑧、⑯、⑱が代表的なものではありますが、それ以外の要素もそうした本質を見て、新たな進化やブレークスルーを行う際の大きな阻害要因になることを念頭に置いておくべきだと思います。
24.
大局と小局:自分も含めて過去の様々な失敗を見ていますと、足元ばかりを見つめて変化や機会を見逃したり、視野の狭窄による判断ミスを起こすケースと、その逆に将来の可能性を過大評価し過ぎて現実との乖離や、肝心のターゲットとなる利用者や社会の理解力、評価力とのギャップが大きすぎたり、肝心のものの完成度が低すぎて失敗するケースに二極化している気がしています。
この辺は荀子の「着眼大局、着手小局」という言葉が当を得ていると感じていますが、現在の多くの大手企業が低迷しているのは、視野の狭窄に陥って着眼大局が不足しているか、逆にビジョン先行型、期待先行型になり過ぎて、着手小局の原則を忘れてR&Dやベンチャー投資に失敗するケースに二極化している気がします。逆にベンチャー企業の場合は、自分の技術やモデルの長期ポテンシャルに惚れすぎて、足元の現実とどうシンクロさせるかが弱くなったり、逆に目先の成功に自信を持ち過ぎて、長期に横たわるリスクや自社の持つ限界を過小評価してしまったりするケースが多い気がしています。
25.
鳥瞰とマクロの視点の違い:大局と小局とともに、プロフェッショナルとして必要な視点は、視線の高さ、視野の広さと、行動における現場・現実等のミクロの視点を両方持つことだと思います。これは経済学の中で一般的に言う、マクロとミクロと言うことと同じ意味ではありません。
それを一番理解しやすいアナロジーは、鷹の目だと思います。鷹は極めて高い高度から広い視野で見ることは無論出来ますが、それと同時に地上にいる小さな獲物も見ることができるミクロの視力も持っています。この高い高度と広い視野からミクロを見る能力を有するからこそ,鷹が狩りの名手なのです。
事業もそれと同じです。現在も色々な企業の企画の段階で、SDG、バイオ、AI、宇宙等々、カテゴリーとして期待される色々な“分野”のキーワードがフォーカスされ、それを核とした長期計画や、投資計画が作成され、それに基づいた投資やM&Aが実施されます。その前提は、「カテゴリーや分野に良し悪しがあり、何らかの方法で皆が注目している良いカテゴリーに参加することが将来の成功をもたらす」という考え方です。それはあたかも、空から見てグリーンに見える肥沃そうな広大なゾーンを見て、そこに鷹がマクロの視点を信じて飛びこむようなもので、そのやり方で鷹は狩りに成功しません。事業の原点は現場であり現物、現実のモデルであり、個別具体的な発想です。この獲物をきちんと空の上から認識して飛来し、そのターゲットを倒すシナリオと能力がない限り、狩りには成功しません。
この認識が弱いために、政府も行政も、財界も皆が注目している有望に見える分野への投資に走りがちになりますが、マクロ的に見るとそうした所謂”ホットに見える分野“全体でみた経済性は必ずしも高くないのが現実です。逆に言えば、獲物、つまり独自の発想と進化の具体的な視点を持てれば、地味な成熟事業の中でも際立って高い成長や収益を上げることも出来ます。
26.
チャンスはチャンスの顔をしていない。;
チャンスが全く来ない人は少ない。チャンスをつかめない人はたくさんいる・・・自己や自分の過去への過大評価も大敵:
私が自分の過去を振り返ってみると、本当に色々なチャンスに恵まれてきたと思います。同時によく考えると、、数多くのチャンスの中で、“いくつかのチャンスの中で比較して選択したこと”はMITを出て、マッキンゼーとブーズアレン、BCGの三つを受けて選択した時だけでした。つまり、それ以外は自分がピンときた話に乗ってキャリアを変える、乃至はクライアントや支援先の仕事を引き受けてきただけでした。しかし、更に冷静に振り返ってみると、その時に自分が選択したキャリアは、最後にはかなりエスタブリッシュメントになった企業や事業でしたが、私がそこに参加した時、特に日本ではそこまでのエスタブリッッシュメントではなかった企業ばかりでした。つまり、その時に私が選択したキャリアは、その時点ではピカピカに光ったキャリアではありませんでした。
これは転職のことですが、それ以外の自分にとって最終的に様々なチャンスとなったことや関係を振り返ると、「その時点では他の人間がピカピカに光ったチャンス」と思わないものを選択してきたような気がします。しかしながら、その選択のほとんどは、私にとって大きなプラスとなったものでした。
こういう自分の目で見ると、「自分はチャンスに恵まれていない」と言う方々の多くは、自分の価値を過大評価し、それにふさわしいピカピカに光った“チャンスの顔をしたもの”を待ったり、色々と迷い、比較対象をしているうちにチャンスの芽を逸してしまったりしているような気がしています。
私は取り立てて自分の能力が高いとは思っていませんが、ただ一つだけ一貫してやり続けてきたことは、新しいキャリアや課題に挑戦する時には、必ず迅速に相手の期待以上の高い成果を出すことにフォーカスしてきました。それは、相手を納得されるためではなく、「自分が選択したものに高い興味とコミットメントを持って自分の付加価値を出す」ことを常にやってきたからだと思います。
27. 人との機会を大切にする。しかし“淡交”:
① 前回もご質問がありましたが、私は色々なチャンスや人に会うことに恵まれてきたことは事実です。ただ、そこで誤解を受けないように申し上げておきますと、私は全く社交性に欠けた人間で、酒も飲まず、集団行動が嫌いで、パーティは大嫌いです。人に会った数はかなり多いですが、それは仕事上の必要性の結果であって、酒を飲みに行ったりゴルフ等のお付き合いをしたりもほとんどしません。・・・・ランボーの確か第二作だったと思いますが、ジャングルの中でガイドの女性にランボーが自分のことを聞かれた時に、“I am expendables.” と言ったところ、その女性に説明を求められた時に彼は、「パーティーに行った時に誰も気が付かず、出てきても誰も気にしない人間のことだ」というようなことを言っていた記憶がありますが、まさにそれが私の心境です。
②
人間関係についての私の心情は、荘子の「淡交」と言う言葉がぴったりで、人のことを真剣に考え、誠意を持った対応はしますが、べたべたした人間関係や、まめなメンテナンスは一切やりません。ただ荘子は、その格言の中で、なゼ君子が水のように淡々とした交友関係でも長続きするのかは説明していませんが、私流の解釈は、結果的に人間関係が長続きするポイントは、お会いする方々には、「会った機会には、真剣に夢中で対応する」というルールです。これは千利休が言った「一期一会」と同じことだと思いますが、私が皆さんにお会いした時にもそうでしたし、その準備も、今書いているフォローのメモも皆さんに真剣で向き合うという日頃私がやっていることの一環です。皆さんからコンタクトがあれば真剣に対応しますが、そうかといって私からまめにコンタクトすることは殆どありません。
先にお話しした元経産省のお役人にお会いしたのも52年前にボストンで、多分当時も他の人間に同席する形で2度ほどしかお会いしませんでしたが、その次にその方とお会いしたのも、それから約25年近くたってご本人が経産省をおやめになりコンサルティングを始めようとされた時に、そのアドバイスを求めてご連絡いただいた時でした。その結果今は少なくとも2~3週間に一度ぐらいはお会いするようになっています。
③
この点はコンサルタントの時にも一貫した方針で、べたべたした人間関係やフォローは私の方からは行いませんでしたが、お会いした時には真剣に対応したり、アドバイスしたりすることをやってきました。私はこの方針で常に人にお会いしましたので、その結果無償でアドバイスすることもかなりやっていましたが、こういうミーティングでの対応も有償の時と同じように真剣に対応しました。サントリーがローエンドのビールを大幅赤字で作っておられた時に、当時のベインの支社長に頼まれてサントリーの酒類担当の副社長に何回かブレーンストーミングを頼まれましたが、その時に私が「なぜサントリーはウイスキーではプレミアム志向なのに、ビールはプレミアム志向ではないのか?」と言うようなことを色々申し上げたことがありました。その言葉にはっとされた副社長は、即時Premium Maltsを開発され大成功されましたが、その後外部の方にもこの話をされるとともに、ごく最近まで大量のPremium Malts が送られてきました。
実はマッキンゼーから独立して始めたコンサルティング事務所ではマッキンゼーのクライアントはサーブしないという方針を貫き、それなりの規模の仕事をしていましたが、自分で開拓したクライアントは1社だけで、他のクライアントほとんど過去に一期一会で真剣に対応した企業や、そこの紹介の企業がクライアントになってくださったおかげで、本当に一期一会の重要性を改めて実感しました。
前回も申し上げましたが、最初のマッキンゼーへの就職の時以外、ヘッドハンターにお世話になったこともなく、ほぼ例外なく私がかつて何らかの機会でお会いして真剣勝負してきた方からのお話で仕事を移ってきましたが、決してそれはたくさんの候補から選んだわけではありません。つまり私がそれほど多くの機会を頂いたという事実は無く、なぜかタイムリーに来た機会を無駄にしなかったということは言えると思います。つまり私と同じぐらいの数の方々との接触を持ってきた方はかなり多いと思いますが、機会が無かったのではなく機会を無駄にする方が多いというのが事実だと思います。更に申し上げれば、私は打算や損得でお会いする方に真剣に対応するのではなく、単に真剣に対応することが自分の習慣であり、それのベースはそういう機会から考えたり学びたいという思いが強かったりしたからだと思います。恐らく私が打算でその努力をしていたらそういう機会も来なかったかもしれませんし、機会を無駄にしてきた可能性があると思います。
28.
「直ぐやる課を作れ」「斃れて後已む」:
大阪商船、阪神電鉄の社長で貴族院議員だった曽祖父の言葉で、当時官僚的でやることが遅かった曽祖父の会社で「直ぐやる課を作れ」と言うことと、彼の座右の銘であった「斃れて後已む」と言う言葉が印象に残っています。最初の話は、「考えたらすぐに行動せよ」ということで、これは後期高齢者になった今でも日々実践しているつもりです。
斃れて後已むの方は、それが曽祖父の座右の銘であったことは小さいころから知っていましたが、その意味を本当に理解したのは、ここ数年間で自分が「死に直結した病気」を次々と経験してからでした。個人的な話で恐縮ですが、私は、喉のポリープの手術、尿路結石を二回、酷い胃潰瘍で救急病院に入院したところから始まり、重度の冠動脈狭窄のステント手術を2回、心房細動のアブレーション手術、運転中の重度の脳梗塞で半身不随、右目の視力の半分を失なった結果軽度の交通事故で倒れ救急病院。橋本病と3個の甲状腺ポリープの発見。引き続いて5個の大きな大動脈瘤が見つかりステントグラフト手術、そしてその手術のCT検査で腎臓癌が見つかり、現在経過観察中という、病気の百貨店の歴史できました。無論それの多くは、自らの不摂生の結果ですので、自己管理ができていなかったことでそれはプロとして至らなかったのだろうと思います。
ただ、そういう中で、最後に今回のMITの講演で皆さんにお会いする約2か月前に発見された腎臓癌が、本当の意味で曽祖父の座右の銘であった「斃れてのち已む」と言う言葉が本当の意味で理解でき、その結果治療方法の選択をした時でした。
皆さんには関係が無いことですので病気の詳細の説明は省略しますが、私の腎臓癌は、かなり小さく、しかも比較的転移のリスクが少ないところにある癌で、事実それを偶然発見して下さった東大病院の大動脈瘤の執刀医の先生からも、「急ぐ必要がないので、まず大動脈瘤の手術をして、それから対応すれば良い」と言われていました。ただ、脳梗塞やその後の大動脈瘤の手術の前後の入院経験中で、入院することの結果ただでさえ後期高齢者の脳の劣化に加えて、脳梗塞による脳の機能の後遺症がある中で、長期の入院によりさらにその脳の一部の機能が微妙に退化するが実感されました。ただ、動脈瑠の入院中に見て頂いた見て頂いた内科の医師からも、私の周囲の医師からも「まだ小さいので、早く外科手術してしまった方が良い」と言われました。ただ、たまたま私は長い間温熱を使った癌治療事業にたずさわってきた経験からも、がんの怖さも分かる一方、標準治療(外科手術+放射線+抗癌剤の併用)の課題、特に後期高齢者の場合のメリットデメリットをある程度理解していますので、自分の腎臓癌で今この外科手術と標準治療に入ることが必ずしもベストでないという判断をしています。特に入院期間とその間の脳梗塞と高齢化の複合による脳機能の劣化についての自覚症状がありますので、半年ごと位の経過観察をしながら、それを続けるか、重粒子線やIMRT等の非侵襲的な高度治療で目視できるがん病巣のみ治療するかを考えようと思っています。
ただこの考え方の根源にあるのは、自分が「斃れて後已む」まではやっていきたいことがいくつかあり、自分の残りの生命の期間の多少の延命やリスクの低減のメリットと、その間に自分の脳の機能をフルに発揮させてやりたい仕事をやることのトレードオフの考え方の結果、今のところ後者を選んでいます。
29.
老後:最後に、皆さんにはまだ無縁の老後と言うことについてお話をしますと、私自身は老後や引退は無いと考えています、上記のように病気の百貨店と自認するぐらい重篤な病気を経験し、今でも腎臓癌や脳梗塞、甲状腺肥大の進行等の時限爆弾を抱えています。前述のように、長期入院を含む手術はしないと決めて、残された生存期間と病気の進行の競争状況を冷静にモニターしていくつもりです。
一方、当然のことですが、自分の肉体や多くの脳の機能も年齢相応の、更に病気の影響で機能によってはそれ以上の劣化が身体に起こっていることは冷静に自覚して、それをベースにした創意工夫はしています。ただ、物事は悪いことばかりではなく、その反面で老化やある種の機能の低下の良いとこも同時に体感しています。そういう意味では肉体的な機能としての劣化は起こっていますが、新たな情報や素材から本質を学び考える力や進化・付加価値の創出と言う点のスピードは、逆にかなり上がっている気がします。それが自分でも不思議で色々考えてみていますが、今のところ自分流の解釈は、(1)長年のプロの仕事の訓練で、自分の脳の中に問題意識、解決したい課題、関心事のかなり広範なフィルターができており、それに新たな情報や意見が引っかかる結果、新しい発想が生まれる。(2)身体や脳の機能や体力の低下の結果、自分ができることフォーカスしたいことをかなり絞られざるを得ない結果、情報の取捨選択にフォーカスができ、重要な関心事への学びの効率とスピードがかなり上がってくる。(3)そうした情報を何に使いたいかの網もできているので、その情報に基づく付加価値や進化の芽に転換する効率も高くなっている気がします。平たい言い方をすると、雑念が取れて、王貞治のように「球が止まって見える」と言う心境に近いものがあります
従って、病気の百貨店の後期高齢者の立場から皆さんにお伝えできるgood
newsは、皆さん方が後期高齢者になっても、「斃れてのち已む」と言う心境と、自分が自然にやりたいと思うことがあれば、おそらく今の皆さんよりもより効率的に、そしてより大きな付加価値の創意と進化への貢献ができるようになるということです。病気や老化を、「できない理由の言い訳に“老後”を過ごす」よりは、「斃れてのち已む」という心境で、棺桶に入る直前まで、学び考えることを楽しむ生き方の方が楽しいことをお伝えしておきます。
以上、皆さんにとっては直接関係がない私の個人的お話もしましたが、皆さんにご理解いただきたいことは、自分を正しく理解して、自分に合ったやり方を工夫し、人と違った付加価値や進化を日々継続することを常に意識すること。どんな世界に行ってもその世界で際立った能力を発揮して初めて、その世界を軌道修正するために、客観的に・厳しく現実を見てそれを解決する方法を論じる権利が生じること。そして自分の変化や劣化も冷静に理解して創意工夫できれば、命が無くなる瞬間まで進化し付加価値を出し続けられる ということです。
平成25年3月13日
貴女の書かれたインタビュー記事をお送りいただきました。最初のインタビュー相手である、ビル・エモットは私も良く存じ上げており興味深く拝読しました。その記事も素晴らしいと思いましたが 、今回のラガルド氏の記事には本当に感激しました 。ラガルド氏の I M F トップとしての見識とリーダーシップもさることながら、日本への愛情と信頼が強く伝わってきました。でもそれは、貴女ご自身にそれ以上に日本への愛情とその潜在可能性に対する信頼がなければ、ああいう記事にはならなかったと思いました。そういうことも含めまして、貴女のジャーナリストとしての将来に期待しています 。
記事の内容にも関係しますが、貴女のポテンシャ ルを見越して、以前より私が考えていたことをお話しして、今後の取材のご参考にしていただければと思い、一筆啓上することにいたしました。
日本の女性労働力の活用
まず、日本における女性労働力の問題は、ラガルド氏も話しておられるように、女性の活躍は私自身も日本にとっての急務であると強く感じています。その理由は、彼女がおっしゃっている経済波及効果もありますし、労働人口の減少の問題も当然あります 。ただそれ以上に重要だと思うのは、日本人の男の気概と見識がここ 30 年ぐらいの間に大幅に低下してしまったことがあります。その現象はいろいろなことが複合していると思いますが、まず新渡戸稲造式に言えば、「 男は社会、組織と女性と家族を守り、女性は家庭を守る」という武士道の精神の形だけが残り、最も重要な武士の三つの役割である社会、組織、女性を守るという役割認識が希薄化し、その既得権意識だけが社会的にも残っているというのがその 第一ではないかと思います。
第二は、受験、高学歴、大企業のサラリーマンという戦後 60 年でできた男社会の構造の中で 、90年代のバブルの崩壊以降、その中で終身雇用されるという暗黙の了解事項が大きく揺らいだ結果、男が保身に回り、身を挺して自分の信念に従って行動するという意識が低下したことにもあると思います。それと同時に、サラリーマンの太平の世の後で、サラリーマン受難の時代を迎えるとともに、夫、父親としての家庭における権威も低下し、ますますひ弱で態度をとれない男が増加したような気がします。
それに対して、日本で社会進出する女性には、大卒、大会社での勤務、結婚という従来の路線そのもののレールも先細りになる一方、既得権は何もなく、ほとんどの親には社会での活躍は期待されていないという厳しい状況が続いていたと思います。その中で唯々諾々としてどうしようもない女性がいることも事実ですが、逆にその中できちんと仕事をしたいという女性には、良い意味での失うものがない開き直りと強さを感じられる人が増えている気がします。私も、長い間コンサルティング会社でエリートをたくさん採用してきましたが、総じて優秀な女性のほうが、エリートの男性よりもしっかりして自分を持っている、気概がある印象がありました。従って女性の社会進出は、企業社会にとってもプラスであり、グローバルに弱体化した日本の社会が他の国と伍していくうえでも、非常に重要なことだと考える次第です。
ただ一つ大きな問題があります。それは、欧米の景気と雇用の関係を見ても分かるように、今の時代は景気が良くなること、イコール雇用が増大したり、給与が増加したりすることにはならないということです。言い換えれば、日本の人口が減少するから雇用が逼迫するという昔の経済理論が通用しないということです。つまり、今のままで雇用の需要の増加なしに女性の社会進出が増えると、男性や若年者、高齢者の雇用にはその分マイナスが発生するというゼロサム問題を引き起こします。外国人労働者の議論も同じです 。
なぜそうなるかというのには理由があります。つまり、現在の社会を支えている企業は、積極的に省力化、効率化、コストの低減のことは皆が研究しています。国家単位でみても、投資されている研究の大半は、大きく雇用を生む方向ではなくむしろ省力化、コスト低減に結びつくテーマばかりです。また途上国は、自国の安い労働賃金を売り込むことに躍起になっているので、ますます企業の効率化、コスト低減熱をあおりますす。つまり今日の社会では、省力化やコストの低減を研究している人ばかりで、人や手間をかければより付加価値が増大する研究にはほとんどだれも投資をしていません。ですから、女性の労働力増加を推進するためには、「人をかけることが価値につながる研究開発」が必要になると思います。そうなったときに初めて、女性の雇用の増大がゼロサムではなくて、ラガルドさんがおっしゃるように4%のGDPの押し上げ効果につながるのです。
日本のグローバル競争力の源泉
日本人は本当にたくさんの優れた点を持っています。規律・勤勉さ・真面目さ・忍耐力、細部にこだわる玉成志向、清潔さや繊細さ、サービス精神や親切心、尊敬や思いやり、忍耐力、チ ームワークと調和、社会 性・他への配慮・自己犠牲、公正さ平等、変化への適応力。そういう日本の良さはかなり失われつつあるとはいえ、日本に来る“感性の優れた外人”は、今でもことごとくそういう感銘を受けで帰ります。ところがそういう日本の製品やサービスが日本の外に出たとたんに、その価値を認識されなくなります。自動車のように欧米の自動車メーカーが、自らこけてしまったような業界を除くと、そういった優れた良さを“プラスアルファーの金を払う価値”として評価されている製品やサービスはごく限られています。
一方、欧米はその逆の気がします。欧米の一流ホテルは一見サービスが良く顧客志向が優れているように認識され、それが高い価格を払う理由にはなっていますが、その実態はそれほど 優れているわけでは無く、サービスが悪いことに慣れてあきらめていた欧米の消費者に、少しベターなサービスをしたから評価されているのにすぎません。製品にしてもそうです。ある肺ブランドのバッグは、 二束三文のプラスチック素材を使って、独特のデザインと神話、需給のバランス調整をうまくやった結果、あれだけ法外な価格がチャージできています。アップルの 製品も同じです。デザイン、使い方の提案、使い勝手、ファッ ション文化の形成等、アップルの競争力の源泉は、決して素材や品質ではなく、もっとソフトなものとマーケティングカです。つまり、欧米のスキルは50しかないものを150 に見せる能力であり、日本は「感度の良い消費者が一生懸命目を開いて能動的に評価してくれた時」に初めて理解できる良さを持っているわけです。ですから、大半の日本の製品やサービスは、リーズナブルな価格プラス優れた完成度というバランスの上でグローバルに受け入れられているものがほとんどです 。多分、唯一の例外はレクサスです。レクサスはトヨタのはるかに値段が安い車と類似の品質とコストでありながら、顧客に知覚されるサービス、ショールーム、品質を認識させる工夫、つまり徹底したマーケティングを行った結果、B MW並みの品格として認知を受けているわけです。
つまり、コストが高い先進国である日本が、自国の優れた長所をグローバルに広げて収益機会に結びつけていくためには、100 のものを 200として知覚してもらえる力、すなわち“マーケティングスキル” を大幅に高めていく必要があると思います。
Principle の復権
今回貴女がお書きになった大震災直後の円高に対してラガルド氏が行った行動は、まさに彼女のPrincipleに従って行った行動です。そういう行動は I M F のどのマニュアルにも職務分掌表にも出ていないはずです。これを読んで私が思い出したのは、かなり前にサッチャー前首相が、首相を退任してしばらくして来日されたときに、NHKのインタビューで、“政治家にとって何が最も大事なことなのか”と聞かれたときに、間髪を入れず " Principle"と答えていたのを思い出しました。思い起こせば、藤沢周平の時代小説に脈々と流れている、日本人の上から下までに流れていた倫理観や考えの規範、つまり" Principle"は、本来は日本人が肌で持っていた長所であったはずです。
ところが、日本の政治家を見ていると、まさにPrincipleを持たない集団のように見えます。本来それぞれの Principle に従ってこびない集団だったはずのマスコミにも最近はPrinciple を感じません。
でもこの日本人の長所は必ずしも完全に失われてしまったわけでは無いと思います。一昨年、 私が被災地の支援で震災直後から回って経験したことは、まさに日本の庶民がPrincipleに従って行動できるという証です。私の会社は私ども世界中のパートナー達が 2 億円の寄付を行い、それによって地元密着の支援活動を行いましたが、宮城県の海岸線で津波に襲われた区を訪問し、区長に私どもの支援サービスを申し出たところ、「大変ありがたいお申し出だけれど、隣の区のほうがもっとひどい状況なので、ぜひ隣にうちの分までサポートしてあげてくださいと言われ、本当に涙が出ました。社会福祉協議会のボランティア組織の本部に行ったときに、食料がひっ迫していた最初のころにバナナやアンパンの差し入れを持っていくと、「自分たちが食べるよりその分被災者にあげてほしい」と言われたり、外国人ジャーナリストが津波直後の被災地の取材をしていたら、着の身着のままの被災者が自分の配給の握り飯を分けてくれたりした話。枚挙にいとまがありませんでした 。
つまり震災のような極限の状況に追い込まれると、日本人の遺伝子の中にある社会性や倫理観というprinciple が発動されるわけです。ですが、普段ぬるま湯の中で活躍している政治家やジャーナリスト、大半のサラリーマンが、日常的にprinciple を意識して行動できているわけではありません。しかしながら、日本が世界二位の経済大国の地位を中国に譲り、利己主義的で功利的になりがちな他国と伍していくためには、日本のリーダーたちが正しい principle を持ち、常にそれに従って言動をして行くことが求められるような気がします。
そのためには、日本人の根底にある遺伝子に頼るのではなく 、Principle を教え、自覚させるような教育を行っていくことがマストではないかと考えます 。
以上、普段から感じている問題意識を徒然なるままに書きましたが 、ぜひ貴女にもそういう課題を考えていただき、良い方向に社会の意識を向けていただければと期待しています。
ますますのご活躍をお祈りします。
日本がなぜ低迷しているかについては様々な要素がありますが、その原因の一つには、日本は様々な既得権が存在しており、それに安住していればそこそこやっていける、という現実が多すぎることにあると思っています。
例えば、日本の大企業に勤める大卒のサラリーマン、何か特別の失態や問題が無ければ、昇進のスピードやどこまで到達できるかは別にしても、定年まで仕事が保証されているというのが、暗黙の理解になっています。これは官公庁の役人も、教師も、つまり何らかの歴史がありある程度のスケールのある組織に属した人はほぼ同じだと思います。
学校とて同じです。日本は受験競争が激しいと言われ続けてきましたし、確かに最終学歴で多少差がつく傾向は残っていますが、欧米やアジアの先進国の受験競争やエリートと非エリートの格差ほど極端な差がありません。極端な高望みをしなければ、何らかの大学には入れますし、そこを出れば最終的には定年まで何かの仕事をして生きていくことは可能です。
男女の格差はかなり無くなったと言われていますが、日本における男性は、女性に比べてまだ見えない既得権に守られています。寿退社、出産退社やキャリアへの影響、昇格は高次元の仕事に就ける確率はいまだに女性は男性よりも劣っています。結婚したら、家事や育児は主に女性がやるのが普通だという暗黙の常識もいまだにあるように思われます。
他の国に比して日本は貧富の差も少なく、特権階級への特別扱いや、極端に贅沢をしなければ、欲しいものを我慢する頻度はあまり高くありませんので日常的に感じるストレスはそれほど強くない、という特権が皆に与えられています。それから外れた人たち、子供たちは比較的マイノリティーですので、自覚されないままに平穏でいられる特権が国民に与えられています。
政治家も選挙で選任されるという点で既得権が無いように見えますが、ほとんどの政治家は余り実質的に付加価値がある仕事をしなくても、周りが皆そうなので目立ちません。テレビで公開されている議会の内容や様子は、お粗末限りがないやり取りや内容が大半の時間ですので、それをそこそここなしておけば一定期間は議員特権を享受して既得権を維持できますし、無難にこなしておけば何らかの公職に近い仕事か叙勲の権利がついてきます。
規制や制度の改変もそこまで大胆に行われませんし、大手思考、実績思考がまだ強いので、企業にとっての実質の既得権が守られた国だと思います。
教育委員会も、教職員も、いじめが横行し生徒が命を絶っても、登校できなくなっても責任は問われません。
失業率も極端に高くなることはありませんし、医療費負担や年金負担、教育費もまだそこまで高くありません、そういう中で政府が企業に働きかけて給料アップや、週休三日制や出産費用御補助や育児支援、楽しみについても旅行やふるさと納税等を次々に与えてくれますので、ますます既得権に甘えた社会になってきています。
北欧のように社会保障制度が日本より充実している国も確かにありますが、総じていえば日本以外の先進国では頑張らないと良くならない、甘えていたら仕事も収入も、様々な機会も得られないという厳しさがある自己責任社会です。米国をはじめとする多くの先進国は、企業は業績が悪くなると簡単にレイオフします。ウォールストリートのトップクラスの企業に勤めるエリート金融マンでも、突然「明日から来なくて良いと申し渡され、デスクに戻ると警備員が自分のデスク横で機密書類の持ち出しを見張っている」ということが当たり前に行われています。
ではそれは、厳しく冷たい社会にすれば良いのかというとそうではありません。というのは、上記のような極端なmeritocracyや、市場機能が発揮されれば正しい経済になるというような議論で、能力を発揮すれば報われ、そうでなければ失職するということになると、今の米国のような分断社会になり、自己の利益や金銭的メリットを過度の追求する社会になります。だれが良心と良識で考えても大統領の資格がない候補が、いつまでたっても大統領選の筆頭を走るような現象はその象徴かもしれません。こうした極端な優勝劣敗の考え方を、厳しく生きて成功することを長らく学んでいない日本人にいきなり導入すると対応できない日本人が続出するリスクがあります。
その答えは、プレッシャーやペナルティーではなく、昨日より少しでも進化し、昨日以上の付加価値の創出に貢献した人間を正しく評価して報いる、さらなるチャレンジの機会を提供できる組織、社会にしていくことです。そういう進化と付加価値創造の機会、創意工夫のチャンスはどんな職業でもどんな活動にもあります。そしてより重要なことは、そういう活動によって人々が喜びと充実感を感じ、自らも報われ、それが又付加価値貢献への正の循環になるような社会的、組織的仕組みを作っていくことです。
今の日本社会は、「仕事は義務、楽しさはプライベートな時間」ということが常識化しており誰もそれを疑っていません。ワークライフバランスという言葉や、時短、週休三日制、兼業の奨励等は、突き詰めていけば現在の業務をやらざるを得ない喜びがない義務と定義し、それを軽減することを是としたメッセージを送り続けています。確かに、毎日毎日同じルーティン業務の繰り返しであれば、それが楽しくもなく生活のための義務になっても仕方ありません。
戦後から、高度成長期までの日本は今でいえばブラックな労働環境が蔓延していましたし、確かに生活のために頑張っていた要素はありましたが、子供としてそういう親を見ていた経験からしますと、日々仕事の難題に直面し、それを創意工夫しながら克服して会社も個人も進化、成長し、付加価値を創造し続けるという循環があったような記憶があります。モーレツ社員という表現もあり、サラリーマンを揶揄する歌も流行っていました。ただ、確かにぶつぶつ言って昼夜土日を使って仕事に邁進していましたが、それは押し付けられてする仕事ではなく、自ら進んで取組み、会社もそれに応じて評価し、より大きな責任を与え、法主も向上するというプラスの循環があったような気がします。
技術や、仕事もどんどん変化している今日この頃ですが、ルーティンワークは機械にお願いして、毎日少しずつでも進化する仕事の楽しさや喜びを感じて付加価値を創出し続け、自らも進化する、それによって評価され報われるという正の循環が機能するようになれば、既得権に依存しなくても成り立つ社会になるというのは、単純すぎる発想でしょうか?
世の中には自分で創業したり、企業のトップとして経営したりする方々と、そういう方々を側面支援してトップの方々が最大の効果を発揮されるようにする副官の方々がおられます。その副官の頂点が参謀と呼ばれているプロフェッショナルです。
私も色々な方にお会いして転職のご相談に乗ることがありますが、そういう方々が良くおっしゃるのは「私はトップでやる器ではないので、トップの副官のような仕事で結構です」ということです。そういう時にお話しすることは、まず「どんな仕事でも、ご自分独自の付加価値を出さないと、継続できません。特に転職で中途で参加される場合は、特にそうです。ましてや、創業者や優秀なトップであればあるほど、副官がどんな価値で貢献するかは厳しくみておられます。」と言うことです。
付加価値を出さないと仕事が継続できないというのは、独立して仕事をしている人間やプロの仕事をしてきた人間からすると当たり前のようですが、官僚の方や大手企業の方々は、日々付加価値を上げることで仕事が続く、という感覚は殆どありません。と言うことは、逆に言えばその裏返しの自分の市場価値もほとんど意識されたことがないままで転職を迎えられます。まあこの話は本論からはずれますので本論に入ります。
そもそも、創業者や経営トップについての議論はかなりありますが、優れた副官その中でも創業者や優秀なトップを側面支援する優れた経営参謀についての議論は、瀬島隆三さんやマッキンゼーの本等以外そう多くありません。特に組織やヒューマンファクターに基づく議論は限られている印象です。
私自身も、自分は経営をリードするのではなく、一貫して副官・参謀の役割を志してきました。プロの組織のリーダーはやってきましたが、プロ組織は指示命令してトップの力で結果を出すのではなく、プロ集団のポテンシャルをいかに引き出すかですので、むしろ参謀に近い感覚で努めてきました。そういう自分のキャリアの中で、経営参謀、特に優れた創業者や能力高いリーダーの経営参謀と言う仕事について考え、何人かの副官志向の方にアドバイスしてきました。それらの話を要約すると以下のようになります。
l 企業活動の中での副官の頂点を経営参謀と定義してそれを目指すのであれば、まず経営参謀の役割は、トップや組織を通じて、継続的進化と、その結果の高い付加価値を創出し続けることだと認識する。・・・・逆に言えば経営参謀がいないとそういう結果だが出せないという不可欠な存在でなければ役割を果たしたとは言えない。・・・・リーダーはできないからとか、自分より優れた方に仕えるという意識ではその役割は果たせません。
l 経営参謀は不遜ではいけないが、サポートするリーダーがお持ちの優れた能力を正しく理解し、リスペクトし誇りに思おう事と、逆にリーダーの方の盲点や、欠陥、性癖、得手不得手を正しく理解する能力が不可欠です。・・・・本音で惚れることと、冷静に分析できる能力の併存・・・・特に創業者の方々は、自分を信頼し評価しているか否かにかなりセンシティブであり、それがベースになった苦言や軌道修正でないと受け入れない方が多いのが実態です。
l 優れたリーダーの方々の多くは、ご自身の判断力にかなり自信があり、その方なりに徹底的に考えた上で判断されますので、それを断念したり軌道修正したりすることを容易に受け入れません。特にその企業や事業の知見において経営参謀は、創業者には及びませんので猶更です。従って、経営参謀にとっての最も重要な能力と姿勢の一つは、リーダーの考えを断念し、軌道修正をしていただくための(1)相互信頼関係を可能な限り早く作ることと、(2)リーダーがどういうアプローチとTPOであれば、そういう好ましからぬ苦言を受け入れられる活率が高いかを見抜き実践する力をつけることです。(3)最後に重要なことは、優れたリーダーの共通点は、一旦やろうと考えたやり方や目標への執念が極めて強く、簡単にあきらめないという点です。・・・これについても、優れたリーダーの方は単なる戦術的手練手管は見抜かれますので、経営参謀もかなりの覚悟とリスクをとって望まないとなりません。そのアプローチには色々なやり方がありますので、ここで網羅することは控えますが、例えば
Ø (1)の信頼関係は基本的にある程度の期間と、様々な出来事の累積によって強固な信頼関係は作られるものですが、同時に人間関係はその中で、信頼関係が深くなるmomentum(最適なタイミング)が色々来るもので、それを見過ごさず的確にとらえて、経営参謀自身もリーダーが苦慮していることに対して、予期しなかった大胆な対応や平素と違った姿勢を示すことで、経営参謀自身もリスクをとることです。
Ø (2)の戦術的やり方はリーダー個人毎に違いますので一概には言えませんし、戦術は色々あります。ただ私の経験では、
² それ程失敗のインパクトが大きくないことでどうしても見解が違うことについては、きちんとリスクや懸念、その結果がどうでるか等をきちんとご説明した上でリーダーがどうしてもやるということをサポートするのも一つのやり方です。そして、経営参謀が正しければ、優れたリーダーは自らの失敗で学習するでしょうし、その時の経営参謀の判断が正しかったことを理解して信頼度が深まる可能性があります、
² リーダーがそういう意見を飲みやすい気持ちや、余裕があるタイミングを見て話を切り出すというような戦術も無論ありますが、要は経営参謀が本当の意味でリーダーの立場や気持ちに沿おうと努力して真摯に提言することが重要だということは言うまでもありません。
² (3)の執念については、経営参謀自身も強い信念と執念をもって粘り強くコミュニケーションをすることです。
要は、経営参謀にはかなり高いヒューマンスキルと、悪い言い方をすれば「他の方をコントロールしてその方を通じて結果を出す能力」が求められます。
l 自分でリードして行動して結果を出す創業者や強力なリーダーのリーダーシップは特異な能力ですが、リーダーや組織を通じて結果を出す経営参謀に求められる能力もかなり高度です。
Ø サポートするリーダーの方々の能力は無論多様ですので、そこで必要な経営参謀の能力も多様です。従って、保管すべき能力はそれぞれのリーダーで違いますので、色々なリーダーをサポートしてきちんと結果を出すプロの経営参謀に求められるのは、スーパーゼネラリストの能力です。スーパーゼネラリストの経営参謀が持つ能力は色々ありますが、その中で普遍的なものとしては、
² 先に述べたヒューマンスキル
² 聞き、考え、そのエッセンスを理解し、そこに意味と付加価値をつけて活用できる能力
² 知らない人や自分に知見がない事象のエッセンスを、迅速かつ的確に理解し、的確な貢献ができる能力
² 欠点や批判を評論するのではなく、物事を前向きに考え解決方法を考えようとするPMA(Positive Mental Attitude)、単なる批判や指摘ではなく、(At Cause)即ち“解決策の一部となる”意識
² 自分を客観的にかつ分析的に正しく理解し、
l 自分の得手、付加価値能力にフォーカスして常に進化させ、変化への理解と意味合いを常にアップデートする姿勢
l 不得手やハンディーがある部分についての明確な理解と取捨選択、カバーの仕方への創意工夫
Ø サポートすべきリーダーとその変化への深い理解努力と、変化のアップデート
Ø 視座の高さと現場・現実の両立、コアな領域・分野と視野の広さ
Ø 想い・執念とOpen Mindedness
Ø 論理的思考、分析力、数字と想い、産業の理論と金融の理論、先端技術への理解と積極対応、伝統的コア技術の進化
Ø
Principle(正誤、優先順位、信念)
政官財あげて、日本における起業家の育成が重要課題として挙げられています。確かにそれが一つの重要課題ではありますが、一方では起業した会社の成功率はかなり低いのが現状です。駄目でも何とかぎりぎりまで頑張るのが日本人の性格ですので、おそらく実質破綻しているスタートアップはさらに多いと推察されます。無論もともとの起業した事業のネタや起業家の能力の問題もありますが、金融機関も含めた、スタートアップに参加し、協力する機関や人材の側の問題もかなりあると考えています。そういう意味では、優れた経営参謀としての能力がある人材をスタートアップに関与する様々な組織の中で増やすことは、もう一つの日本再生への重要な施策になるのではないでしょうか?
現在の日本では、政官財こぞってリスキリングを提唱しています。
確かに十年一日のごとく、企業もそこで働く従業員も、変化のないルーティンワークの仕事を続けている傾向がある日本企業にとって、現在その社員が持っているスキルが陳腐化し、そのままでは長い雇用の保証が約束できないことは事実です。更に厳しく言えば、その雇用主の企業自体が、急激に変化し進化しているグローバルな環境や技術変化の中で、旧来の延長線上の仕事を継続している状況であれば、その企業自体が永続できないことも自明であると思います。その理由は日本の中での環境が厳しくなってきているからでもありますが、そういう企業が多い日本の状況では、日本自体が国際競争力で勝てないリスクがどんどん高まってきているからです。
一方言葉に拘っていちゃもんをつけるわけではありませんが、リスキリングが本来意味するところは陳腐化したスキルしか持っていない人材に、新たな需要が増しているスキルを習得させようということだと思います。更にそこまであからさまに言っていませんが、言外には現在グローバルに立ち遅れている情報やAI関連のスキルを持った人材をリスキリングで養成しようという意図が見えています。確かにこれは今の日本企業における余剰人員を減らし、その人材を全く不足しているスキルを持った社員に転換するという意味では短期施策としては間違ってはいないように見えます。
ただし、より先をシミュレーションしてみますと、現在の技術変化と進化のスピードを見ると、今狭義のIT関係業務のスキルを身につけさせても、そのスキル自体が自動化されたり代替、陳腐化されたりするリスクもどんどん高まって行くことは明らかです。そしてその“より先”という期間がどんどん短縮化されているのが現実です。
ではどうすれば良いかとなりますが、その答えを出すためには、なぜ今の日本が世界の変化に乗り遅れたのかという原因を考えないとなりません。そういうと俄かに、政治家が悪い、行政が悪い、企業が悪い等々の魔女狩り議論になりますが、個人的にはそこで悪いと批判されている組織が同じように同質化して立ち遅れ陳腐化していることが原因だと思っています。つまり今の日本はどこから切ってもすべて陳腐化の病気にかかっているのだというのが事実だと思います。
他方、歴史的に見ると、日本という国、日本人は、80年代までは最も環境変化への適応力もあり、進化と付加価値創造や先進技術の取り込みも迅速な国であり国民だったと思います。80年代の初期ぐらいまではブルーカラーが知的労働者化して最も優れた知的労働者の国だったと思います。それがなぜここ40年ぐらいで陳腐化した変化に愚鈍な社会であり国民になってしまったのかというと、一言で言えば、大卒のホワイトカラーサラリーマンがマジョリティーになり、教育も、企業も、まったく異なった役割のはずの政官財も同質化して、同調主義が蔓延したことにあったのではないかと考えています。この陳腐化の始まりはバブルでJapan as number oneで始まり、その反動のバブルの崩壊から続く長いスランプに破綻せず対応すると同時に国民全体がドメスティック思考になってしまったことが原因だったと感じています。
そういう中で、現在の日本の人口の大半を占めるホワイトカラーの人間が生まれてから死ぬまでの段階を脳の機能という観点から非常に単純化して考えると、(第一期)肉体が成長し続けるティーンエージャーから20代後半までの時期、(第二期)そこから40歳台前半ぐらいまでの時期、(第三期)その後のいわゆるマネジメント型の時期、(第四期)従来の定義による定年後から高齢者になる時期があると思っています。
その中で、日本以外の国の成功者の典型的な育ち方を単純化していえば(第一期)個性や意志がかなり重視され、自己責任というprincipleの意識を早い時から教えられながら、自分でやりたいこと、思うことに色々挑戦して、失敗したり成功しながら最初の自我の実現の行動を経験する。特に高校以上では、自分で選択し自分で考え行動し、自己責任でアウトプットを出しコミュニケーションすることが中心になる(第二期)組織に入り様々な情報や学びを経験しながら、スキル面ではかなりスピーディーに進化し、付加価値を出し、常識や社会や組織のルール下で行動することも学びます。社内でも多様な業務や部署を経験し、自発的に移動や転職を経験することが日常茶飯事です。(第三期)20代後半から30代ぐらいで若くして背伸びしてストレッチした役割を持ち、マネジメントや責任がある役割に移行して一桁大きな責任とリスクリターンを経験しながら、自分のキャリアを作っていきます。多くの場合、この時期にかなり大きな責任がある役割につくか、何度か転職を経験して自己責任でキャリアをステップアップするか、自分の実力の限界を意識させられる経験を継続して行きます。(第四期)ここからでも、多くの方は転職や新しい仕事に自己責任でチャレンジして生きていく方が多く、一部の成功者は、早目の引退で悠々自適の生活を送る。
これが、自己責任で自分の道を選択し、成功したり失敗を経験したりするという、今の日本以外の主要国の当たり前の状況だと思います。無論、その結果こういう国々には、自己責任の戦いに敗れて鳴かず飛ばずの人生を送る多くの大衆がおり、それが社会格差を生んでいるという批判もありますが、要はそういう自己責任の戦いに勝利した人間がグローバルな戦いを行っているという認識が必要だということだと思います。
さて、そういう理解でここ40年近くの日本と日本人を見ていますと、前述の4段階の状況はかなり異なります。(第一期)肉体が成長し続けるティーンエージャーから20代後半までの時期・・・・最近は少しずつ変わってきているとはいえ、日本の教育が講義と記憶、画一的な人間教育をベースとしたものであり、個人個人の適性やモティベーションに関係なく画一的な学習プロセスがまだ基本になっています。「運動会のかけっこで、差がついた時に皆が揃ってフィニッシュすることを強要する」ということが批判の対象になりましたが、大なり小なり日本の画一的で同調主義の風潮がまだ主流を占めています。そういう中で大学を卒業する日本人の大半は、与えられた授業と教科書を学ぶことが大半で、自らの個性やモティベーションに基づいて、自分でやりたいことを選択したり、自己責任で失敗や成功を経験したりするというのはまだかなりレアケースではないでしょうか。(第二期)そこから40歳台前半ぐらいまでの時期・・・・マジョリティーを占める大卒日本人の大半は企業のサラリーマンとして就職し、そのピラミッドと長い終身雇用のエスカレーターを徐々に上がっていく中でスキルを深め、ある範囲での経験をしていきますが、それはかなり同質化した組織の中で、限られたリスクと体験、限定したレベルのストレッチの経験を積んで中間管理職への道を進み、出向や留学等を経験しない限り環境の激変や自らが大きなリスクをとってチャレンジするという経験は限られているのが現実だと思います。(第三期)その後のいわゆるマネジメント型の時期・・・・そういう中できちんとした評価を得ると、上級管理職や執行役員、取締役等の上級管理職の役割を経験しますが、個々の到達する年齢はグローバルなエリートに比べて10歳以上の差があると思います。更に社員と管理職や上級管理職や役員の業務との差がどの程度あるかと言うと、会社自体がこの40年間でそこまで大きく激変していない状況からしてもかなり同質化した仕事の延長線上で階段を上がり続ける経験が続く傾向があります。(第四期)従来の定義による定年後から高齢者になる時期があると思っています・・・・そういう中で、この40年来の日本企業の低迷の中で、かつて成長期ではかなり既得権に近かったグループ内企業での定年後のキャリアも少なくなった結果、定年後になって初めて、一人になって自力で選択し、自己責任で生きていく事態に直面される方がほとんどです。
そういう中で必要なのは、国、両親、教育機関、企業をあげて、早くから個性を重視し、自己責任で色々なチャレンジや経験をする機会を提供し、チャレンジさせる努力が必要なのではないでしょうか?
今の日本の低迷の原因は、同質化と環境の激変もない長い低迷社会の中で日々同じような環境で40年間過ごしてきたことにあると言っても過言ではありません。日本人は環境の激変への適応力が高いことはその歴史が実証していますし、その間仕事でも個人生活でも様々なミニイノベーションを経験し起こしてきています。そういう80年代初期までの日本の進化の歴史と、その後の40年間の同質化と環境変化の刺激にない人生の中で今の日本があります。無論、そうした同質化と同調傾向の中でも独自の進化と付加価値創出をし続けられた日本人はいましたが、マジョリティーの日本人は環境変化の刺激が少なく、勝ち取るのではなく与えられることに慣れた40年間を送ってきてしまったのではないでしょうか?
こうした背景を考えますと、短期のスキルギャップに対応することに並行して直ぐに着手すべきことは、小さいころから基本のプリンシプルは厳しく教育されながらも、同質化よりもどちらかと言うと個性と独自性を奨励され、異種の刺激を常に受け、その中で自分で選択して自己責任で異種の体験をすることを奨励され機会を与えられ、それを社会人になってからも組織内外で常に新しいこと、未経験なことを体験し、自分で道を開き、失敗と成功から学ぶ体験をさせる環境を整えることの方が、より日本人の本来の能力とも合致し、永続性があり、変化への対応能力がある人材を育成する決め手になるのではないでしょうか?
「球が止まって見える」「Principle」「諦めることで道が開ける」「セリフは一度忘れろ」「自己の模倣に陥るリスク」
かなり以前になりますが、最初の言葉は、王さんが通常のスポーツマンの肉体年齢のピークを過ぎられまだホームランの記録を更新中の時におっしゃった言葉だったと思います。二番目は、以前イギリスのサッチャー首相が来日された時に、日本のマスコミのインタビューで、「政治家にとって最も重要なことは何か」という質問に対して、「principle」と即座に応えられたのが印象的でした。三番目は、APU学長で、最近脳出血で大きなハンディキャップを負われた出口治明さんのお言葉で、脳出血後のリハビリで、時間がかかりそこまで回復する見込みがないリハビリはあきらめ、彼にとって重要な声をいう機能にフォーカスしてリハビリを行い復活されたことを述べておられました。四番目は、俳優の長塚京三さんがおっしゃった高齢化とセリフと言うコラムの中でおっしゃった言葉で、セリフという形式を正確に復元しようとするのではなく、その奥にある深い意味を体得してセリフを超えた演技をされた高齢者の俳優の方々のお話でした。5番目の言葉は、ごく最近深田武さんがお書きになった「老いの力が生む晩年様式」と言うコラムの中で、老いてますます深みを増している芸術家たちを例にとって、そういう方々は多くの老人が陥りがちの、「自分の繰り返し。つまり過去に自分が得意だったことを単に繰り返すこと、つまり過去の自分を単に模倣している「自己模倣」に陥らずに、常に挑戦して進化し、年を経るごとに芸を深めている芸術家のことを書いておられました。
更に、直近の車の中で偶然一瞬見たテレビ番組で、人間の年齢と機能の上昇と低下の議論の中で、唯一年齢とともに向上する能力は思考力と判断力だったと言っていました。ついで申し上げれば、何回か前のこの星火燎原のコラムの最後に書いた、「脳梗塞と高齢化のメリット」に関する私のコメントがあります。
さてこういうと、かなり時期もばらばらで一見脈絡もない事象のようですが、私にとってはこれらの情報は私が考えている「AIの時代に、人間に残された固有の価値は何か」、「若年から中年、高齢者になるトランジションで重要なことは何か」「高齢者の価値はあるのか?」というテーマに関する私の考え方を少し進化させてくれます。
私は星火燎原でもかねてからコメントしてきた通り、ロボット化、AI化、つまりデジタル化が劇的に進む中で、唯一人間に残される可能性がある能力は、優れたアナログの能力を磨き、発揮し続けることだと考えています。無論デジタルでもアナログ的なことは可能になりますので、アナログ能力も進化することが前提ですが・・・・。
デジタルに置き換えられるものは、肉体的な能力や機能ですし、脳でも記憶や検索等は既にかなりデジタルに置換されていますが、そうしたアナログの能力の中で残されるのは、深く、広く考え、類推して考えを飛躍させたり、イノベーションを起こす能力だと思います。更に、様々な情報や考えるべき要素の中で、重要度や善悪を含む優れた考え方や判断の時の正しい基準、即ち正しいprincipleを持ち、それに沿った判断ができることだと考えています。
そういう能力を磨くやり方は色々ありますし、個人にあったやり方の選択が必要です。ただ、余程自分を熟知し、自分のアナログの力を進化させ続け、付加価値創造能力を発揮し続ける方法を分かっており自己研鑽ができる人間でない限り、多くの人間は(1)十分な外的な刺激と、(2)考え、学ぶ能力、(3)問題意識、強い意志と執念、(4)物事を考える時の明確なPrinciple、(5)それらを統合し、飛躍させて、新たなものを創造するという、“アート”の能力 が必要なのではないかと感じています。無論天賦の才能や人格等もありますが、上記の5条件が揃えば、遺伝子的には優れていると思われる日本人はあるところまではいけるのではないかと考えています。
このアーティクルのタイトルの登場人物は野球選手、英国の首相、経営者、俳優、芸術家等ですが、いずれも年齢や体力等の常識に挑戦し、自ら進化と付加価値を貢献し続けられた方々です。その辺の方々のことを詳細に理解しているわけではありませんので、ここからは私の個人的体験と、解釈ですが・・・・
(1) ・・・の外的刺激については、一人で閉じこもって考え詰めることの連続で進化と新たな付加価値の創出を継続的に行われた方は極めてれ悔いの存在で、一生進化成長され続ける方々は、色々な刺激と体験をされ、色々な選択や失敗の経験、試行錯誤の結果そういう進化のパターンを体得された方が圧倒的に多いと思います。つまり新しい異種の体験や刺激、がきっかけとなり、それが進化を促す刺激になることの重要性です。同じ組織、同じ仕事、同じ仲間、同じ環境、同じルーティンの中で自助努力で多面的に脳を活性化することはかなり至難の業です。
(2) ・・・の考え学ぶ能力は、いくら多様な体験や刺激にあっても、それに反応し、刺激を受けて学ぶ能力やマインドが無ければ意味がありません。機会は与えられますが、学びは与えられるのではなく、自らの普段からの問題意識、考え方のフレームワークや情報を検知する網、興味と熱意、要素分解力、類推力(analogy)、思考力等が高くないと、同じ刺激でも収穫量(yield)が全く異なります。学びは、身近で慣れ親しんだトピックからよりは、まったく違った刺激によって想起されるものがかなりあります。
(3) ・・・・問題意識、強い意志と執念、は様々な経験や刺激を受けた時に、それを必要としている問題意識のプールはそれらをすくいあげる”網“が有効に機能するか否かが重要です。何かを解決したい、そのヒントを発見し続けるという強い意志と執念があれば、まったく無関係と思われる情報からでも学ぶことができます。執念はこの中でもかなり重要な要素ですが、何か大きな障害やできない理由、限界の直面した時に、それで納得して妥協してしまうか、それともその答えが見つかるまで執念深く考え努力するかは進化に貢献する人間にとってはかなり重要です。逆に、自分の身近なことですぐに役に立つ情報ばかりを追いかけ、そうでない情報には興味を示さない姿勢の”生産性重視派“がイノベーションをリードする確率はあまり高くないというのが、私の印象です。
(4) ・・・・物事を考える時の明確なPrincipleは、(3)と同様に、かなりの量の刺激とその要素を取捨選択し、それを解釈する時に重要なフィルターになります。特にPrincipleは善悪や優先順位を示すことは当然ですが、自分がものを見る時の仮説や社会的ニーズ、味方の誤り等も重要なPrincipleの要素で、それによって同じ刺激であっても、吸収できる意味合いはかなり違ってきます。
(5) ・・・・それらを統合し、飛躍させて、新たなものを創造するという、“アート”の能力を表現する事はかなり難しいのですが、これこそ人間固有の能力だと思います。センスという表現もありますが、この能力は天賦の才能と日頃の訓練により磨かれる能力だと思います。
こうした能力は、小さいころから様々な経験と、そこから学び興味を持つプロセスから始める場合もありますが、むしろ自己の模倣に陥らずに常に進化しながら年齢を重ねるに従って磨かれていくように感じています。脳は20歳代から徐々に劣化が始まるようですので、脳細胞はどんどん減っているようです。肉体的にも、歳を取るに従って急速に劣化していきます。ここで引用させていただいた方々や、私のように重篤な病気でさらに機能不全に陥るリスクは年を取る毎に増してきます。
ただ、その反動で、記憶力や注力できる範囲やエネルギーに限界が出てくると、余計な雑念や情報を切り捨てられるようになりますので、その分本質が見えて考えが深くなっていくような気がしており、ここで引用させていただいた方々はまさにそれを体験しておられるのだと思います。偉大なスポーツ選手であった王さんが球が止まって見えるとおっしゃった時には肉体年齢はすでにピークを過ぎておられた時だったと思います、そういう中でホームランを量産され、「球が止まって見える」状態の時の王さんにとっては、体力が有り余っておられた若い時に色々考え、勉強したりアドバイスを受けて、トライした時に比して、雑念や考え方が削ぎ落され、フォーカスが絞られた状態を「球が止まって見える」とおっしゃったのではないかと感じました。
サッチャー首相のPrincipleと言う発言も、年齢的にも経験においてもピークを過ぎられたサッチャーさんだったからこそ、最も重要なPrincipleが明確に見えられるようになったのではないかと考えました。
その他の方々のコメントも、一般的には肉体的にも健康的にも最も充実している年齢よりも、自らも成長し、高い志の中でフォーカスしたことに徹底注力して、そこでの進化と様々な付加価値を創出し続けるベテランの方々の姿のように思いました。そして、これが墓場に入るまで進化し、貢献し続ける人間のアナログのあるべき姿であり、シニアな人材の社会的使命なのではないかと考えた次第です。
他方、終生進化し付加価値を創出され続けた方々(LTEVP:Life Time Evolution and Value addition Professional)がいつそういう方向に舵を切られたのかについては個人差があるようですが、自分の体験や、自分が存じ上げているLTEVPの方々若いころから拝見していると、若いころから新しいことにチャレンジして、学び、日々進化して新しい付加価値を出す習慣をつければつけるほど、その習慣が身につくことはやさしいようです。その意味ではこの内容はシニア層へのメッセージですが、本当に理解して欲しいのは若手の方々です。
以前の本稿で、サッチャー首相が現役のころのインタビューで、政治家にとって大事なことは何かと問われたときに、「Principle」と即座に答えられたお話をしました。この時にサッチャーさんがおっしゃっておられたPrincipleは、おそらくかなり基本原則や、倫理観に直結した、普遍的お考えだったのだろうと思います。
確かにそういう永続性があり普遍的Principleもありますが、Principleには様々種類がありうると考えています。私が定義するPrincipleは、複雑な要素がある物事を判断する時に、その取捨選択の基本となる考え方だと思っています。
一番分かりやすいのは、善悪、正誤の判断ですが、その基準も宗教や価値観によってかなり変わります。他国領土や領海への侵略行為と言うほとんどの世界が”悪“と理解するPrincipleも、自国優先をPrincipleの基本に据えると判断は変わってしまいます。
より個人の生きざまに影響するPrincipleが今回の主題ですが、グローバル化による価値観の多様化や、多様な技術革新が急速に進む中で、考えるべき要素や見解もかなり複雑化しています。SNSはスマホのグローバルの普及により情報格差がなくなった分、物事を判断し、取捨選択することもかなり複雑化しています。ほとんどのケースで、すべての要素、すべての意見を満足する解はほとんどないというのが現実です。その結果、進化に必要な社会的決断も、個人の決断もかなり時間がかかり、その間にまた環境が変化して新たな決断が必要になる傾向があります。今の世論に媚びて批判を恐れる傾向が強い日本の政治の迷走は、まさにその典型的現象だという気がしています。
そういう中で重要なのは、今の日本に重要なPrincipleは何かを明確に定めて、これに従って取捨選択することだと思います。例えば以前のコラムでも申し上げた、最近のIRの許可も、国民全体に及ぼす悪影響、事業の倫理的性格、それを推進することのベネフットというPrincipleに照らして考えれば、その答えはすぐに出るはずです。
個人にとってのPrincipleは様々ありえますが、今の日本の問題は、Principleを持たないままに生きている日本人が極めて多いことではないかと言うのが私の懸念です。色々な方に話を聞くときに、私はその方が持っておられるPrincipleや人生における取捨選択について伺いたいと思っていますが、明確なPrincipleに従って生きておられると感じられる方はそう多くない印象です。Principleが人生における自己の選択を行う時の基準だという定義によれば、Principleを持たない人間は、言い換えてみれば厳しい二社選択の判断を誤ったり避けたり、流れに任せて生きていくということになりがちになるのではないかと思います。それは良い意味では社会や環境への適応性が高いということにもなるかもしれませんが、社会以上に進化し、高い付加価値を出すことを目指すのであれば、独自のPrincipleをもって厳しい取捨選択を重ねていく必要があるのではないかと思います。
若い時から明確に自分のPrincipleを持つことはかなり難しいことであり、多くの場合はある程度の歳を重ねながら独自のPrincipleを持つようになることが多いと思いますが、中には若いころにそれを実践している方を見ることができます。例えば、野球の大谷翔平氏は、28歳の青年ですが、その生きざまを見ていると、かなり明確な様々なPrincipleをもって日々の自己管理を徹底しているように見えます。その例は様々あるようですが、例えば今年度から使い始めた長めのバットの選択も、操作性を重視した従来のバットを選択するか、長打と、長打を打てる範囲を重視した長めのバットを選択するかであったようですが、彼の選択を見ると、操作性という要素よりも長打を打つというPrincipleをより重視して行った選択だったと理解しています。
社会よりも人よりも早い進化と高い付加価値を出す人生を選択する人材が増えれば増えるほど、社会も早く進化し、高い付加価値の成長を行えます。すべての人がそういう人生を送ることを選択するか否かはそれも個人の選択ですが、明確なPrincipleをもって正しい選択を行える人材をどやって育成するかは、日本にとっての一つの大きな課題なのではないでしょうか?
最近の日本の政府や大手企業の対応を見ていると、その多くが、”守り“の発想で考えられている気がします。DX、SDGs、AI、量子、バイオ、年収の壁の打破や収入対策、等の一見挑戦的な言葉が盛られていますが、その中身の多くは、日本がグローバルに遅れをとっているテーマに遅れないためのスローガンと予算措置のように見えます。一方、昨今企業が意識し目指す企業としてしばしば引用されるのはGAFAMで、そこに追いつき追い越すことを意識したスローガンが多くなっています。そうした中で、政府から打ち出される具体策も、税収の国民への還元を始めとする極めて刹那的で、国民の支持を失わないための施策が見られます。
これ等の施策を、政府や行政も企業も、そしてマスコミも“挑戦”と呼んでいるようですが、その内容を見る限りほとんどはcatch upつまり現在のリーダーの後追いに近い構想で、日本の独自性は感じられないという意味では“守りの施策”に過ぎません。
更に、こうした発想の根底には、「すでにかなり完成度も高く、その分野ではドミナントに近いエスタブリッシュしたリーダーがいる」という20世紀型の発想があるように思われます。その意味でもこういう国や進んでいる技術、先進リーダー企業が勝ち組でそれにcatch up するという考え自体が、本当の意味での挑戦ではなく、守りの発想ではないかと思います。では、それはこれからの日本にとって、正しい発想なのでしょうか?
明治以降、戦後の復興期や高度成長を含む日本の歴史についてみると、日本は欧米の技術や手法を模倣して追い付いた歴史だとおっしゃる方もおられます。しかしながら、日本のやってきたことをより詳細に見ると、その時点での先進国や企業であった欧米から学んだことは事実ですが、それは一部の途上国が安い労働力を活用して先進国を模倣して来たのとはかなり違ったやり方をしていた歴史だと思います。事実、欧米のものを取り入れた技術や製品、食物等のほとんどは、日本なりの創意工夫や付加価値を付けて、改善・進化させた、つまり何らかのイノベーションや日本や日本人が持つエクセレンスを応用したものを作り、その結果、その時期過去の地位に安住していた欧米企業を凌駕して来た歴史だと思います。またグローバル市場にはチャレンジしていなくても、日本の中で独自の進化や完成度をとげた結果、日本に来るインバウンドの方々から高く評価されているものがたくさんあります。
より長い歴史を見ても、インドや中国、オランダ、イギリスを始めもともとは諸外国から学んだものを、日本流のイノベーションを行ったものが、日本の文化や芸術、食、地場産業としてきちんと進化、昇華されてきています。そういう日本古来より伝承されているものの多くは、グローバル展開には消極的で島国日本の中にとどまっていたために、これまでの日本経済には大きな存在ではありませんでしたが、昨今のスマートフォンやSNSが貧困国も含めて普及し、メタバースのような仮想型疑似体験やグローバルなマーケティングやビジネスのコストの飛躍的低下により、日本が蓄積してきた様々な資産と創意工夫の得意技がグローバルに発展していく可能性、つまり潜在的な日本の事業資産は多く残っているはずです。現在の経済規模からすると、日本のOECD経済における日本の経済は12%前後だったと思いますが、OECD内部ですら日本の企業がきちんとOECDを攻略できたとすれば、その時の国内とOECDの事業ミクスは国内が12%、他のOECDが88%となる計算です。一部それに近い比率を既に獲得している日本企業もありますが、グローバル展開している日本企業ですらはるかに低いグローバル比率ですので、国内情報格差がなくなったグローバル経済の規模や、まだグローバルにチャレンジしていない日本企業の潜在可能性を考えると、日本の経済ポテンシャルはかなり高いと考えられます。
つまり、日本はその長い歴史の中で、常に新しいものを積極的に学び、それに日本流のその工夫と付加価値、イノベーションを行うことによってそれまでのリーダーより優れた製品やサービス、文化を作ることに挑戦してきたチャレンジャーだったことが、その繁栄の基本であり成功に結び付いた遺伝子だったという事実が、今の多くのリーダー達から忘れ去られてきた気がしています。
もう一つの誤認は、現在日本が遅れている様々な分野や技術、社会的インフラや仕組みの中で、先進国や先進企業、先進技術がかなりドミナントで巨大なエンパイアを作り上げている、つまり日本はエスタブリッシュした中での模倣と追いかけをやらないとならないという認識です。つまり、この30年、40年間の変化で日本が一番理解しなければならないことは、すでに出来上がっていたという産業や企業、国が短期間のうちにその繁栄を失い、新しい技術や、サービスやそれを先駆したチャレンジャーがあっという間にドミナントなリーダーのように見えるところまで成長したという事実です。そして、そういうチャレンジャーの技術やそれによって創出されたサービスも、さらなる進化や新しい技術やチャレンジャーによってあっという間に淘汰されるという現実をこれから見ていくということへの理解です。GAFAM自体も、皆が巨大なキャッシュフローを上げているわけではありませんが、その一部が年間創出している巨大なキャッシュフローや、そのキャシュフローと大きな株価倍率の相乗効果としての巨額な企業価値を見ると判断を誤りますが、現在の金融経済で肥大化した余剰資金ベースで考えると、彼らの高い業績も現在のグローバルな経済のごく一部に過ぎないことは理解していくべきです。これについての危機感が最も強いのは、今ドミナントな巨人と見なされているGAFAM各社自身で、その一つの危機感の表れはFacebookによるMetaへの変身でしょう。
こういう歴史や事実を冷静に考えていくと、今の日本が行おうとしている守りの諸施策、挑戦と言いながら実質的には追いつくための守りの施策で日本が成功できる可能性はそこまで高くなく、過去40年近くの政府の資金の多くがここに注がれてきたという事実をきちんと理解するべきでしょう。そして、本来は高度成長期の日本の繁栄を支えてきた日本の大企業も、守りや「挑戦と言う守り」、「模倣し追い付くという守り発想」から離れる時が来ていることを認識すべきでしょう。
そして、政官財、マスコミ、国民を上げて、日本古来の遺伝子である「創意工夫と進化をリードする挑戦者」の発想に立ち返って、環境も激変し続けるグローバル社会での挑戦者としてのリーダーシップを取っていくことへの舵の切り替えを行うべきではないでしょうか?
昨今の”人財“についての政府や大企業の対応を見ていると、「国と国民、企業と社員のもたれあい」がますます深まる施策のような印象があります。
「国や組織が個人を守り、個人の欲するものを与える」ということで、過去半世紀地近くにわたってそれを軽視してきた国や企業の責任として、個人が欲する”wants"を少しでも満たし、不満を解消したり、支持者を確保したりするという考えは理解できないことではありません。ただ、それが本当に“人財”を考える施策として、本来の日本の人材が必要とする重要な”needs"を考えた時に適切かと言えばかなり疑問なものが多いのが現実です。
国や企業が実施しつつある諸施策、例えば労働時間の短縮、有休の積極的取得の奨励、兼業規制の緩和、リスキリング、出産育児支援、賃金や幹部への登用における男女格差の是正、報酬の改善、留保金や税収の還元等の一過性の収入アップ、NISAなどの早期の投資教育、独立支援やスタートアップへの金融支援や融資条件の緩和等、広く色々な施策が行われているように見えます。ただ、本稿で後述する日本人の国民や勤労者にとって最も大事なニーズを考えた時に、そうした施策の中で妥当性が疑われるものが多いという議論は、本来はこういうことを客観的な立場で考え報道するはずのマスコミも含めてあまり行われていません。
こういう施策のもう一つの、そしてより重要な問題は、そういう社会的風潮に慣れた国民・社員は、国や企業が支援することを当たり前と感じて国や組織への依存心は高まりますが、決してそれによってロイヤリティーが高まる訳ではありません。日本の国民の知的水準は徐々に低下してきているとはいえ、さすがに今回の刹那的な税の還付は65%以上の国民は評価していないようで、ホッとしました。ただこうした施策のより大きな問題点は、こうした対策の多くが日本国民の本質的問題である、ここ40年間近くで起きているグローバルな変化とそれ等の日本へのインパクトや、その結果国民自体がどう“自助努力の進化”をしなければならないのかの認識を高める結果につながらないことです。
この40年近くの間にグローバルにはものすごい大きな変化が起こっており、それを前向きにとらえ自助努力ができるマインドとチャレンジ精神がある人間には物凄いチャンスです。一方、従来の、特に1980年代ぐらいから日本に蔓延している社会と国民、企業と社員の相互依存型風土に慣れ親しんできた日本人にとっては、実は最大の危機が来ているのですが、今の政官財マスコミにはこの認識が高いとは言えず、多くの日本人はこの現実を認識できていません。
そういう変化は多岐に渡っていますが、そういう中で“人財”と言う視点で考えた時の今の日本人にとっての最大の変化、危機は、「これまでの組織と社員の相互依存型の社会は早晩消滅し、プロフェッショナルな社会が到来している」と言う現実です。
プロフェッショナルと言うと、「何かの分野の専門家・スペシャリスト」と言う解釈がありますが、ここでいうプロフェッショナルは違います。時に技術や事業モデルの進化が急速に起こり始めている現在においては、狭い領域を深堀するタイプの専門家・スペシャリストよりは、社会や技術の多面的な広がりと変化に対して、付加価値と進化を創出できるsuper generalist の重要性が増してきますので、そういう意味での“スペシャリストのプロ”とは違います。
ここで言っているプロフェッショナルと言うのは、自己責任で自らが進化と付加価値創造を推進できる人材と言う定義です。この定義によると、プロフェッショナルでない人材とは、組織に所属し、組織と社員が相互依存型で仕事をすることに安住している人材と言うことになると思います。こう言うと、「日本が頭角を現した戦後の復興期や高度成長期も、日本は相互依存型の組織だったのではないか?」という反論が出そうですが、その時と今の違いは、当時は欧米企業と言う目標があり、それに対して日本は挑戦して色々なイノベーションをしながら顧客の評価を獲得し、その結果社員が会社の付加価値の向上と成長に大きく貢献し、企業もそういう結果生じた果実を社員に配分するという、相互の努力と緊張感の中で成り立っていたので、それは相互依存と言うよりは「双方が切磋琢磨をして成長した成功」だったと思います。
ただその時と今のもう一つの根本的違いは、当時は曲がりなりにかなり長期間目標とする欧米のモデルがあり、日本企業のトップはそれを見ながら挑戦者の部下にチャレンジさせまとめて行けばよかったわけですが、これからの経営者も経営企画部隊も、その組織が向かわなければいけない方向や自社の独自性を明確に持てていない企業が多いという現実があります。国もそうですが、各社の長期計画を見ると、類似のキーワードと概念的目標が書かれているケースが多いのがその現実を表しています。
こうした変化がなぜ日本に急激に起こるかと言うことのきっかけとなっているのかと言う理由としては、(1)1980年代までに低迷していた伝統的欧米型経営がバブルの崩壊以降劇的に変化するとともに、GAFAMのような新興勢力が極めて短期間に企業ランキングのトップに君臨するようになったこととそのグローバルインパクトが大きいこと、(2)バブルの崩壊、(3)Japan as number oneのはずの日本が挑戦者から守りへの転換・・・リードすべき日本が自らの強さへの誤認と迷走、(4)インターネット、SNSによる格差の消滅と情報のグローバルで瞬時の流通、(5)金融経済の大幅な拡大と巨大な余剰資金の蓄積と、旧来の金融機関と異なった発想、制約、事業モデルを持ったファンド等の巨大投資家の登場(6)潤沢な資金の供給と従来と異なった企業の価値評価による投資を背景としたGAFAM、DX族、ベンチャー勢力の台頭、(5)コロナ・在宅勤務による相互依存型社会の崩壊、(6)これに対する日本、日本人の変化は相互依存度、他力本願、(7)既得権への過度の信頼と守り、(8)日本の成功要件の正しい理解の不足と「追い付け追い越せ」に関する誤解による後追い指向の更なる拡大・・・・・今後世界全体も迷走が始まりますが、現状の日本ではそれ以上に衰退するリスクが発生しています。そしてこうした動きへの変化のきっかけの“蕾”は出始めていますが、誤った解釈と誤った活用がなされているのが現状です。
そういう中で、従来のような相互依存型の組織運営を続けていくことは、自社の衰退を招くことにもつながり、明確な目標の無い企業に依存して自己責任意識が弱い中で、社から与えられた仕事を受け身で消化する意識の社員から構成された組織が、こうした環境の中で進化し、成長していける可能性は極めて限られています。
ここ半世紀ぐらいの日本、日本企業においては相互依存型組織が基本的な基調で、企業経営の中でプロフェッショナルと言われていたのはコンサルティングや一部の金融等、自己責任を持ったプロ組織に所属していました。ただそういう中で、日本企業時代は昭和時代から相互依存型モデルであったわけでは無く、復興期から高度成長期までは会社と社員は緊張感を持った協働関係であったものが、バブルの崩壊で、相互依存型に変化してしまったということは、前述の通りです。
本来自己責任があり自分の仕事の付加価値を自ら創出してきたはずのコンサルティング業界ですらも、システム関係の仕事が大きな比重を占めるとともに、その規模の肥大化の中で過去の類似例のノウハウの蓄積をベースに仕事をこなすタイプのプロジェクトが多くなるに従って、プロ自体がサラリーマン化して、その仕事の本質も変化してきているのが実態です。そういう中でここ半世紀の間に日本は相互依存型の社会に変化してきました。
他方、欧米や多くの途上国においては、もともと社会は厳しく能力主義や自己責任が基本の社会でしたので、個人主義や個人の利益追空が社会問題として出てきてはいますが、個人により自己責任や会社と社員の雇用における緊張感は崩れてはいません。こうした社会においては、up or outと言うことは基本認識であり、キャリアを作っていくのは自分の能力や付加価値創出能力、自らが進化していける能力です。
別の稿で、伝統的に日本は自己責任と自己研鑽、自己の進化と付加価値創出能力が基本の社会であったことは、お話しした通りです。これは、私が良く引用する藤沢周平や様々な歴史小説を読んでも、組織の上下や富裕の格差はありましたが、その階層の底辺にいた優れた日本人は、与えられた役割以上に高い志と創意工夫をもって、付加価値の創出や進化に貢献してきました。これは本稿で私が定義している「経営環境や上司の良し悪しに関係なく、自己責任で自らが考え創意工夫して結果を出す」というプロフェショナルな姿そのものだと思います。
日本の政官財の歴史を見ても,圧倒的に優れたたリーダーが大きな進化と付加価値を生み、国や企業の大きな繁栄をリードした事例はむしろ少なく、志と創意工夫で結果を出した一般人や職員によってこうした繁栄がもたらされてきたのだと思っています。つまり、日本のかつての繁栄をリードした要素は、日本人の遺伝子の中にはそれが組み込まれていると思います。この遺伝子が相互依存型に曲がってしまったのは、バブルから始まったこの半世紀です。
日本の政官財マスコミ自体も、実は「自己責任で付加価値の創出と、進化の促進に貢献することで自らの道を拓くプロフェッショナル」となっていないことは明らかですが、国民として「彼等の動きを待って自己のプロフェッショナル化を進める」というアプローチにはかなりリスクが有るという自覚が必要です。無論その姿勢そのものがまさに相互依存的発想だからと言うこともありますが、それ以前に日本の体制や日本をリードしている層が変化し、プロフェッショナルな政府、行政、企業、マスコミになることはそう容易ではなく、そういう指導者層がこれまでの相互依存型のモデルを維持できる余裕がなくなる時期がかなり早く来るということの方がより現実的で高いリスクだからです。
かなり多くの日本国民が属している企業を例にとっていえば、日本企業がこれまでの延長線上でやっていけなくなることは明らかですし、相互依存型の社員を終身雇用と言う理由で抱え続ける余裕は無くなります。その第一次はバブルの崩壊直後の大幅なリストラでしたが、現状はもっと深刻です。それを打破していくためには、企業自身が組織やリーダーシップの変革、重要なポストの幹部の変革が不可避になってきます。一部の伝統的日本の大企業の中にも、外人のトップを登用したり、部門の長にスカウトした中途採用の人間を登用したりすることが起こり始めています。そういう中で、自社の社員の新しい環境への対応能力や付加価値創出能力、社員としての自らの進化が遅い場合は、自社の幹部を登用している余裕は無くなってきますし、内部登用の失敗は様々な企業で顕在化しつつあります。
そういう中で、肝心の社員自身がそれを自覚して、自己責任で自らの道を拓くプロフェッショナルへの転換努力を“今始めないと”間に合わないという自覚が必要です。コロナに端を発したリモートワークを例にとって考えてください。リモートワークで、ほとんどの企業側も社員側も初めて実感したことは、これまで金科玉条のごとく残業をしてこなしてきた業務の多くが、その重要性ややり方の効率から見てそこまで価値がある仕事、仕事のやり方ではなく、リモートで、しかもより少ない時間でこなすことができることを理解したと思います。その結果、多くのリモート社員が普段できなかった家事や普段できなかったことをやり英気を養うことができたということを聞いています。それは、メンタルヘルスの上では良いことだったと思います。ただその時に、「今まで自分が出してきた付加価値は、こんな簡単に置換可能なのだ」「今の自分のままでは、自分の仕事は維持できない」「社員にこんな低付加価値のルーティンワークをやらせていたら、会社は持たない」ということと、そのリモートワークの間に「自分がどういうことを学び、どういう成長をしたか」と言うことを考えた社員が何人おられたでしょうか?そしてコロナによるリモートワークが緩和された後で、その後の自分の仕事が終わった後で、「今日自分は何を学び、進化し、新しい付加価値を生み出したか?」と考えられた方がどのぐらいおられるでしょうか?
副業禁止の緩和も同じです。会社も個人も、副業緩和の目的は今の職での余剰時間の有効活用でも、プラスαの報酬の為でも、円満な転職の準備の為でもありません。もし副業に意味があるとすれば、自己責任で、マンネリ化した相互依存の環境から抜ける体験をして、日々新しいことを学び、それによって自らが進化し、新たな付加価値創出能力をつけることです。
リスキリングも全く同じです。例えば、DX分野を中心としたリスキリングは、会社が今必要なDXの問題解決ができる人材を促成栽培することや、DXのエキスパートを大量に育てることではありません。今の相互依存型のリスキリングで、エキスパートの大量育成ができるという想定は甘すぎます。リスキリングと言う言葉自体が誤解を生むと思いますが、多くの社員に新しい分野の知見を得る教育を行う目的は、新しい技術や分野の考え方アプローチを理解し、一部のスキルを会得することで、自分の仕事やその関連業務への新たな付加価値を生む発想ができたり、それによって進化を促進することです。また、自分の業務以外に就く場合でも、そういう業務を学んだ発想や見方で考える結果、新た付加価値や進化を生み出すきっかけになることだと思います。それが前述の、super generalistとしてのプロフェッショナルの第一歩だと思います。
プロフェッショナルと言っても、様々な種類がありそれによってプロとしての要件も違いますが,要は今後の変化のスピードが加速する世界でのプロフェッショナルに共通のことは、国や組織に依存せず、自己責任で仕事をし、自己責任で学び進化し、自己責任で日々新たな付加価値を創出するというマインドだと思います。
日本人がその遺伝子である、自己責任と、自分で創意工夫し付加価値と進化に貢献するマインドと習慣が常態化し、それによって自らの道も開いていく。会社はそういうプロフェッショナルで優れた人材が本当に必要としている組織運営の要素を満たすような仕組みと制度、機会を提供するとともに、自らの組織が彼らから高く評価され、所属したい企業としてリスペクトされるプロフェッショナルな組織になる努力をする、こういう相互緊張感がプロフェッショナルな社会に移行する日本の基本になるという認識が必要ではないでしょうか?
この辺を正しく認識して人財戦略を正しく考えて実行して行けば、今後も大きく変動してまだまだ勝敗が決してはいない社会で見本人や日本がリードできるチャンスはかなり高いのではないかと考えています。
今年の春闘までは、政府も、経済団体も、そしてメディアも盛んに賃上げの情報発信を行っていました。政治家も、「内部留保を崩して賃上げをせよ」という本質を理解していない主張を繰り返していました。経営者の方々も、なぜ政府が民間に賃上げを迫るのかという正論も控えて、大企業の多くが賃上げを行いそうな雰囲気です。
ここ40年間の日本の低迷とグローバルな地位の低下の責任は、政官財にあるので、その責任の代償で内部留保を吐き出せというのでない限り内部留保を取り崩しての賃上げは一過性の効果しかありませんし、それこそsustainableではありません。
日本企業は80年代から90年までにかけてかなり粗利を改善してきました。つまりその時期は付加価値を改善してきた時期でした。一方、その時期の日本企業がその分ネット利益を大幅に改善したのかというとそうではなく、その粗利益率の改善は、その時期に起こった大卒サラリーマンの大量雇用で増加した販管費でそこまで伸びませんでした。そしてその後のバブル崩壊からの40年間はそこまで粗利は改善されていない、即ち付加価値の継続的改善は行われなかった時期でした。
それと並行してその間に起きたのは、グローバルでの技術やビジネスモデルの大幅な進化に、日本や日本企業、日本人が乗り遅れた現象でした。IT、スマートフォン、AIを含む技術の登場は様々な進化をもたらすとともに、付加価値の大幅な創出ももたらしました。つまり、事業や事業モデル、サービスモデルの進化に日本が遅れをとったことが、経済成長や付加価値の増大から取り残される結果を生み、その結果国民に配分すべき付加価値のパイが増大しなかったのが現実です。
日本が最も発展し、世界の最も優れた経済、事業モデルだった高度成長期においては、日本や日本企業の進化は目覚ましく、国民特に工場労働者のTQC活動を象徴とする知的労働者への進化は、日本への継続的付加価値増加をもたらし、社員、国民への報酬も増加してきました。
その結果発生したバブル経済、ブルーカラーからホワイトカラー経済の移行の時期にバブルが崩壊するとともに、労働者の大半となったホワイトカラーが進化と付加価値創造の先兵となれるような社会、企業、本人たちの努力と進化が遅れ、その時期に様々なテクノロジーや事業モデルの劇的変化が起きたのが実態だと思います。
もともと日本や日本人は向上心、職業倫理を含む倫理観、考え創意工夫する力とマインド、そういう仕事を楽しむ国民性を長い歴史の中で培ってきました。従って、日本のこういったアドバンテージが失われる前に、正しい事実認識を政官財、マスコミ、そしてホワイトカラー自身が持ち、自らの進化と日々新しい付加価値を創造するプラスのサイクルに貢献することに邁進する社会的進化ができれば、日本の復活は十分可能だと考えます。